山籠もりで村おこし=炭焼三太郎・NPO法人「日本エコクラブ」理事長/841
かつては労働運動に関わり、旧日本社会党委員長の公設第一秘書も務めていたが、故郷の東京都八王子市の山の中で炭焼きなど村おこしに取り組む。江戸時代の炭焼き長者にあやかって名乗っているのが「炭焼三太郎」だ。
(聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)
「ホタルを乱舞させ、東京湾まで飛ばしたい」
「生粋の日本社会党で育った僕としては、政界再編の動きにとてもついていけなかった」
── 新緑に山ツツジが映え、川のせせらぎ、野鳥の鳴き声も聞こえてきます。炭焼き場のあるここ八王子市恩方の醍醐地区は、東京都とは思えないような山深くて静かな場所ですね。
炭焼 いいところでしょう。ここには全国から人が来ます。もちろん炭焼きを覚えたいという人もいるけれど、ただここにいるだけで心が安らぐという人もいる。無我夢中で仕事をしてきた団塊の世代の人も多いですよ。子ども向けに炭焼き体験教室も長いことやっているので、近くの小学校の児童たちも課外授業でよく来ます。障害のある子や不登校の子どもたちも、ここへきて竹を割ったり炭焼きをしたり、本当に楽しそうです。わーわー野山を駆け巡ったりするうちに、帰る頃には元気になっています。(ワイドインタビュー問答有用)
── 目の前の山は一面、木が伐採されていますが、何でこんなことになっているんですか。
炭焼 この山は「堂山」といって、見ての通り周りには大きなスギやヒノキがいっぱい生えています。けれど、春になるとスギの花粉がいっぱい飛ぶので、村の人たちから「何とかしてほしい」と。山を持っていたのが僕の親戚で、新型コロナウイルスが感染拡大し始めた昨年3月ごろから山をきれいにする活動を始めました。
山の上にお地蔵さんがあり、昔ここで疫病がはやった時、村の人たちが収まることを祈願したんです。そこで、我々が村の人と一緒にコロナ撲滅を祈念し、「祈りの山・堂山プロジェクト」と名付けて、花粉症の元凶になっているスギやヒノキの木を伐採し、いろんな花や桜の木を植えることにしました。
山花氏の公設第一秘書
── お金も結構かかるのでは?
炭焼 専門業者に伐採を頼んだりするにしても、それなりに費用がかかるから、市役所に補助金の申請に行ったんですよ。そしたら1万円だって。しょうがないので、言い出しっぺの僕がちょっと私財を投じてね。もう桜は40本ぐらい植えています。伐採したスギの木はトラック30台分ぐらいあったけど、全部、(近くにある八王子市の農村体験型レクリエーション施設)「夕やけ小やけふれあいの里」に寄付しました。
JR中央線の高尾駅から車で約30分。秩父山地を分け入ったところに、炭焼さんが理事長を務める日本エコクラブの活動拠点「醍醐山房」がある。「自然を楽しく創造的に遊ぶ」をテーマに、自然の中にさまざまな遊び場を作り出し、人と自然とが調和する地域作りを目指すことが目的。醍醐地区で炭焼き活動をする「DAIGOエコロジー村」も日本エコクラブの参加団体で、炭焼さんは村長も務めている。そんな炭焼さんだが、かつては労働運動を率い、旧日本社会党の山花貞夫委員長の公設第一秘書でもあった。
── 炭焼きの活動は、現在はDAIGOエコロジー村が中心になっているようですね。
炭焼 今日も誰かが来て炭焼きをしているんじゃないかな。炭焼き塾、山菜・薬草で地域おこしの活動……、いろんなことをやっていて、それらをトータルでエコロジー村の活動にして、運営役として一応“村会議員”もいるんです。村長がいて助役がいて、年に何回か、議会も開いている。みんな集まって、一杯飲みながら、来年は何をすべぇ、なんて話し合っている。ま、これも遊びのため、楽しいですよ。
江戸時代に巨万の富
── なぜ本名の尾崎正道ではなく、「炭焼三太郎」を名乗って活動しているのですか。
炭焼 この地区で焼かれる炭は古くから「案下炭(あんげずみ)」と呼ばれ、江戸で広く使われていた。江戸時代にその炭を江戸で売って巨万の富を得たという八王子出身の炭商人が成内三太郎です。仮名垣魯文の戯作本『滑稽三太郎ばなし』にも出てくるので、僕も知ってはいましたが、この地域の村おこしとして炭焼きに取り組むようになってから、三太郎にあやかって炭焼き長者の名を名乗ろうと思いました。
── 山に籠もる今の姿からは想像しにくいですが、東京経済大学に在学中の若かりし頃、労働運動に身を投じたそうですね。
炭焼 当時の学生はみんなそんな感じでしたよね。マルクス研究会とか資本論研究会に入って勉強したり、学生運動とか労働運動に参加して活動をしたりしていました。日本社会党で浅沼稲次郎さんが活躍していた時代を見ていたので、僕も弱い人のために頑張ろうという政治家に憧れて、三多摩地区労協の常任書記になったんです。当時、組合員は10万人ぐらいいたかな。
── どんな活動をしていたのですか。
炭焼 組合員と一緒に春闘の方針を作ったり、各地の集会の講師に呼ばれて講演をしたり、指導というほどでもないけど、組合員に助言をしたりね、楽しかったですよ。労働争議の闘いとか日常活動のオルグとは別に、各組合の雑誌作りなんかもやっていたんですよ。僕が28歳か29歳の頃、日本社会党の委員長になった山花貞夫さんの公設第一秘書に抜てきされました。
── 山花さんは総評の弁護団に加わっていた弁護士で、政治的には社会党左派でしたが、どんな人だったのですか。
炭焼 山花さんは弁護士で労働運動をやっていたから、大きな労働争議があると一緒に泊まり込みで闘ったりして、気心が知れていましたね。一言で言えば紳士でした。国会議員と秘書は、雇用主と使用人みたいな関係だけど、山花さんとは同志みたいな関係でね。仲間という感じでした。闘士というよりはインテリのほうが合うかな。
── その後、郷里の八王子に戻って市議になります。
炭焼 35歳の時かな。八王子市議会では当時、最年少と言われました。国会議員の秘書を7年半ぐらいやって、市議が4期目になったあたりから政界再編の動きが激しくなったので、僕もそろそろこの世界から足を洗おうかなと。その頃、中央で自民党と社会党の2大政党に、第三極を作ろうという政界再編成の動きがかなり激しくなって、うちの先生はその第三極を作ることに挫折したんだよね。
政界再編の波に翻弄
── 山花さんは1993年1〜9月に旧日本社会党委員長を務めましたが、当時の政界は非自民・非共産の細川護煕連立政権(93年)から自社さ連立政権(94年)、旧民主党結成(96年)へと移る激動期でしたね。
炭焼 僕は山花さんの活動をサポートしていたけれど、生粋の社会党で育った僕としては、この政界再編の動きにとてもついていけなかったということです。左派とか右派ということでいえば、どちらかというと僕なんかちょっと左っぽかったから、(自社さ連立政権で)社会党の委員長が首相になって自衛隊を謁見するなんて、僕らからすれば、なんだこれはと思うわけよ。だから、この辺で静かに身を引こうと。
── それで炭焼き塾を始めた?
炭焼 そうそう。そこで、僕が生まれた恩方の醍醐という集落で「恩方一村逸品研究所」を立ち上げ、この村の特産品を作ろうと「醍醐丸」というお酒を作ったり、恩方の民話を収集して世に出したりする活動を始めたんです。何のきっかけだったか忘れたけれど、“炭焼きの伝道師”とも呼ばれた元農林省林業試験場木材炭化研究室長の杉浦銀治さんと出会い、96年に恩方に炭焼き窯を作って「炭焼き塾」も始めることにしました。
── もともと恩方では炭焼きをやっていたんですか。
炭焼 ここは昔、林業と炭焼きが盛んだったんです。僕が子どもの頃は炭は燃料などとして日常的に使われていましたが、すっかり衰退してしまっていました。そんな時、杉浦さんが「尾崎君、ここで炭を焼いて村おこしをしたらどうか」と言い出したもんだから、恩方に再び炭焼きの火をともしたい、炭のパワーを広めたいと考えるようになりました。それで作り出した特産品の一つが「案下炭」です。
スローライフの実践者
家業も林業や炭焼きをしていたが、炭焼きの経験はなかった炭焼さん。杉浦さんや炭焼きの技術を身に付けていたいとこからも学びながら取り組んだ。その炭焼き技術を普及させようと、月1回のペースで炭焼き塾を始めると、東京周辺の埼玉や千葉、静岡などからだけでなく、九州・福岡から夜行バスで来る人まで現れた。多くは仕事をリタイアした団塊の世代。慌ただしく現役時代を駆け抜けた後、郷里で余生を楽しく過ごしたり、地域おこしに役立てたりしたいという時代のニーズにマッチした。
── 確かに、2000年あたりから地域おこしの一環として炭焼きが各地に広がり、備長炭を使った飲食店なども増えたように思います。
炭焼 ある焼き肉チェーンの経営者から「炭を使わせてほしい」という申し出があったりしましたが、断りました。金よりも暇がほしい。24時間誰にも支配されず、自分で使いたいと思ったんです。ただ、今にして思えば、社会的な活動を続けるにもお金がかかるので、僕が営業マンになって収益を上げる視点を持っていた方がよかったかな、と。そういうことには頭が回らなかったな(笑)。
うちの炭焼き塾の参加者は1000人を超えていて、ここで技術を習得した人たちが、静岡の伊豆や千葉の館山など6カ所ぐらいで、炭焼き教室などの活動をしています。僕としては遊びの延長線上みたいな感じで、スローライフの実践者。「金のないやつはここへ来い。オレもないから心配するな」なんて言っているから、本当にお金のない人が来る(笑)。そういう人といろんなことをして酒を飲むのが楽しいんだよね。
── 炭は時代の変化とともに利用法が変わっていますね。
炭焼 消臭剤や殺菌剤として冷蔵庫や下駄箱に入れたり、床の下に敷くとシロアリの駆除もできます。たたくと澄んだいい音がするので、「炭琴」として演奏にも使われる。学校の課外授業では軽くて扱いやすい竹炭を作ることが多いですね。荒れた竹林を整備して竹の再利用ができるし、竹炭で浄水した水と氷を使えば安いウイスキーが“高級ウイスキー”の味になるから、今度試してみたらどうですか?
── 現在の社会民主党は所属国会議員が2人と、退潮に歯止めがかかりません。
炭焼 社会党という党名がなくなり、社民党も衰退している現状を見ると、寂しいという感じだね。かつては自民党か社会党かの二者択一の時代もあったけれど、ソ連の崩壊(91年)によって資本主義か社会主義か、という軸を失ったことが大きかった。「何かできなかったのか」という申し訳ない気持ちもあります。自分としては政治から足を洗って坊主になったつもりで、山の中に籠もって炭焼きをやっているということです。
── これからやってみたいことは?
炭焼 醍醐地区を流れるこの醍醐川でホタルを乱舞させたいと思っています。(ホタルのエサとなる)カワニナがすめるように水をきれいにするのは大変なんです。遊びは忙しいんですよ。昨年は5、6匹しか飛ばなかったけれど、どんどんカワニナが増えているから、今年はもっと飛ぶと思います。この醍醐川から東京湾までホタルを飛ばすのが夢ですね。
●プロフィール●
炭焼三太郎(すみやき・さんたろう) 本名・尾崎正道(おざき・まさみち)
1946年4月生まれ。東京都八王子市恩方出身。東京経済大学中退。在学中に三多摩地区労協常任書記に。その後、元日本社会党の山花貞夫委員長の公設第一秘書を経て、八王子市議会議員を4期務める(83〜99年)。97年、八王子市恩方の醍醐地区に「恩方一村逸品研究所」を創設し、地域おこしに取り組む傍ら、江戸時代の炭焼き長者の名にあやかり、「炭焼三太郎」を名乗る。2001年にNPO法人「日本エコクラブ」を設立し、理事長に。