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匿名性の天才 筒美京平の楽曲は万人の胸に溶け込んでいく 「歌謡曲の歓喜」をつくった男

「サンデー毎日6月13日号」表紙
「サンデー毎日6月13日号」表紙

 昨年10月、国民的作曲家にして稀代のヒットメーカー・筒美京平氏が逝去した。手がけた楽曲の傑出したポピュラリティとは対照的に、筒美氏は自身の存在をほとんど主張しなかった。筒美氏と共作もあり、「京平先生」と私淑し続ける音楽プロデューサー・松尾潔氏が、匿名性を志向した孤高の天才の表現世界に分け入る――。

「また逢う日まで」「ブルー・ライト・ヨコハマ」「AMBITIOUS JAPAN!」…

「昭和を代表する」と冠して紹介されることも多い作曲家の筒美京平が誤嚥(ごえん)性肺炎で亡くなったのは、昨年十月七日である。享年八十。

 縁あって数年にわたって仕事を重ねたぼくは、その後いくたびかテレビやラジオに呼ばれてコメントを発したり、トリビュート・アルバム『筒美京平SONG BOOK』のプロデュースに関わりもした。追悼の意を表す文章もいくつか寄稿した。

 だが、語っても語っても、いや、語れば語るほど、肝腎(かんじん)なことは何ひとつとして言語化できていないのではという疑念が募る。

 ほんとうの傑物の死は、終わりのない追想を生むものらしい。

 生き残った者の記憶に残っているあいだは、人は死んでいない。ただ肉体が滅びただけだ。だから、筒美京平は生きている。

 ぼくはいま、これが最後という覚悟で原稿に向かっている。

 ここからは、いつもそうしていたように、故人を「京平先生」と呼ばせていただく。

 念のために言うなら、ご本人は「センセイ」付けを周囲に強いるようなタイプではなかった。実際、彼を一度もセンセイと呼んだことがない、彼はそう呼ばれるのが苦手だったはずですから、と涼しげに懐古する音楽人も少なくない。

 がしかし、ぼくはいつも京平先生と呼んでいた。それ以外の呼びかたはどうにも馴染(なじ)まない。

 彼の謦咳(けいがい)に接するたびにいつも湧き上がってくる感情を表現するには、「さん」ではとても足りないように思われたからだ。その思いは今なお払拭(ふっしょく)されていない。

 かねてより京平先生がご自宅で病気療養中であることは、関係者のあいだでは公然の事実だった。だが実際に病床を見舞った者はほとんどいなかったようだ。ぼくもそのひとりである。

 人徳や人望に欠けていたからではない。むしろその逆で、直接のまじわりをもつ人びとは、京平先生を敬い慕えばこそ一定の距離を置くという不文律を共有していた。

 とりわけ晩年はその傾向が顕著だった。ご本人が望んだことでもあっただろうし、コロナ禍がそれを決定的にした。

最も多くのヒット曲を生んだ作曲家

 昭和四十年代半ば、我が家にオープンリール式テープレコーダがやってきた。

 三十代のサラリーマンだった父親が趣味のジャズ鑑賞を充実させるべく買ったツールは、早くも数カ月後には近所の子どもたちを集めての歌合戦を盛り上げる「音の出るおもちゃ」と化していた。

 とはいえ、その歌合戦の司会を務めていたのは他ならぬ父親だったから、ひとりでジャズを聴くより愉(たの)しい時間がそこにあったのだろう。

 歌合戦といっても、カラオケがまだ普及していない時代のことだ。主な伴奏は小さな出場歌手たちによる手拍子のみ、そこに姉の気まぐれなオルガンやぼくの出鱈目(でたらめ)なタンバリンがたまに交じる程度。

 当時録音したテープには、ぼくが生まれて初めてマイクに向かって吹き込んだ歌が残されている。

 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」。

 精悍(せいかん)な顔つきと太いもみあげが印象的で、雄々しい歌声を持ったこの男性シンガーを、父親は「日本でいちばん歌のうまか男たい」と評した。それどころか、「日本人離れした」と形容されることも珍しくなかったとぼくが知るのは、何年も経(た)ってからだ。

「また逢う日まで」が日本レコード大賞の「大賞」を受賞したのは、昭和四十六(一九七一)年の暮れ。ぼくがマイクに向かったのは、どうやら翌年のことらしい。

 その作曲と編曲の双方を手がけ、尾崎のソウルフルな歌唱を見事に引きだしたのが筒美京平である。あれほど思いを重ねあったのに、別離を選ぶしかないふたり。そんな哀切な愛の情景を、一人称をいちども使わずに描ききった阿久悠の筆力もまた圧巻である。

 テープのなかの四歳のぼくは、「また逢う日まで」のイントロ部分で響くホーンセクションの口真似(まね)に全神経を注いでいる。

「♪パッ・パッ・パラーラ・ラッ♪」

 直後には、司会者と小さな出場歌手たちが寸分違(たが)わぬタイミングで絶叫する「ドン!」がしっかりと録音されていた。この叫びもイントロのドラム(フロアタムか)の音を模したものである。

 平明な、でもたしかに聴く者の心を昂揚(こうよう)させる調べを、大人も子どももいちどきに思い浮かべ、その再現に心を砕いて声を合わせる。それを「歌謡曲の歓喜」と呼ぶことに、ぼくはいささかの躊躇(ちゅうちょ)もない。

 昭和四十六年の日本レコード大賞はさながら筒美京平ショウだった。

 大賞と歌唱賞をダブル受賞した「また逢う日まで」をはじめ、同じく歌唱賞の「さいはて慕情」(渚ゆう子)、大衆賞の「さらば恋人」(堺正章)、新人賞の「17才」(南沙織)、作曲賞の「雨がやんだら」(朝丘雪路)、同「真夏の出来事」(平山三紀)。

 以上六曲すべての作曲と編曲を、筒美京平ひとりが手がけた。無論こんな記録は空前絶後であり、同業者よりよほど大谷翔平のような存在と比較したほうが話は早い。

 加えて、異常なまでの長寿を誇るヒットメーカーでもあった。音楽業界には作曲家年間売り上げという指標があるが、京平先生は一九六八年から一九八九年の二十二年間にわたってトップテンを守った。しかもそのうち十年は首位、トップ3にいたっては十八年。作曲作品の総売り上げは史上最多の七千六百万枚以上。

 日本の音楽界で最も多くのヒット曲を生みだした作曲家、それが筒美京平なのである。

 日記によれば、共通の知人を介して連絡をいただいたぼくが、初めて食事に誘われたのは二〇〇三年四月十五日。火曜の夜。平井堅やケミストリーの作品を通して、そのプロデューサーに興味を抱かれたという。

 京平先生は六十三歳の誕生日を目前に控え、ぼくは三十五歳になったばかりだった。メディアへの露出を避けつづけた伝説のヒットメーカーの動く姿を見たことはなかったが、彼の音楽はいつもそばにあった。

 隠れ家と呼ぶにふさわしい、六本木のはずれの地下のレストラン。京平先生が店に入ってきた瞬間のことは、いつまでも忘れることがないだろう。

 遠目にも極上の素材ですばらしい仕立てとわかるスーツに身をつつんだ紳士は、その服装にふさわしいエレガントな所作でまずぼくを魅了した。

 声量は控えめだが、けして無口ではない。音楽にはじまり、料理、ファッション、海外旅行と話題が移っても、話しぶりから機知と皮肉の絶妙なバランスが失われることはなかった。批評と自嘲のきわどい均衡といってもいい。

 強く惹(ひ)かれたのは、皮肉や自嘲のほうである。その鋭さに、信頼するに足る大人だとの思いを強くした。それから仕事や食事の場で頻繁にお会いするようになるまで、大して時間はかからなかった。

 思い出はつきないが、なかでも印象深い出来事がある。

沈黙を貫き、ただ曲を作りつづけた

 ぼくが音楽プロデュースを担当したテレビCMで、出演する仲間由紀恵さんにオリジナル楽曲を歌ってもらうことになった。作曲を京平先生にお願いした。プロデュースの意図を正確かつ迅速に理解した先生は、新曲を数パターンも用意してくださった。

 独特の癖のある手書き楽譜の解読にもう慣れていたぼくは、その中の一曲がCMソングの枠を飛び越えるほどのパワーに満ちていることを確信した。

 しかし、ひとつだけ不安があった。サビのメロディーの最高音が、仲間さんの声域から少しはみ出してしまうのでは。キャッチーなメロディーの魅力には抗しがたいのだが。

 稀代(きだい)の作曲家に書き直しを求めることについての躊躇も当然あった。

 思案に疲れて正直に告げた。すると京平先生はこともなげに「そりゃ書き直しますよ」と返し、でも……と言いかけたぼくを遮るように言葉を継いだ。

「僕たち作曲家は歌ってくれる人がいなきゃ世に出られないじゃない。歌ってくれなきゃメロディーだって聴いてもらえないし」

 安堵(あんど)を覚えつつも、真意を摑(つか)みかねてぼくは訊(たず)ねた。一般論として、レコーディング前にレッスンを積めば歌えるようになるかも、という場合はどうでしょう? 

「レッスンしなきゃ歌えないメロディーじゃダメさ」

 鳥肌が立った。

 おだやかな言葉のむこうに、歌づくりのきびしさ、そして作曲家の矜持(きょうじ)がはっきりと見て取れたからだ。

 この話は、レコーディング本番では仲間さんが難なく元のメロディーを歌いこなして一件落着、その曲「恋のダウンロード」は二〇〇六年にシングル化されてトップテンヒットを記録するという幸せな結末を迎える。

 ヒットメーカー筒美京平は、この種の逸話に数えきれぬほど向き合ってきたのだろう。

 キャリアを積んだ音楽家にごく当たり前のように出席が求められる会合を、京平先生は極端に回避した。業界団体の要職や名誉職とも一切無縁であろうとした。そのことを誰もが知っていたから、就任を請う人もいなかったというのが実情に近い。

 一方で、ビスポークスーツの採寸のためだけにホテルの客室を押さえたとか、薔薇(ばら)の庭づくりを学ぶために渡英したとか、静かに贅沢(ぜいたく)な暮らしを愉しんでいるという噂(うわさ)はずっと絶えなかった。

 そんな生きかたを、韜晦(とうかい)が過ぎると捉える向きもあった。同世代の音楽家には、後進の育成や音楽の未来を守る活動を当然の責務と考える人たちも多いからだ。彼らにとっては、京平先生の振る舞いや生きかたはずいぶん独善的に映っただろう。

 あの人は現代の貴族だからと揶揄(やゆ)する声が、ぼくの耳に届いたこともある。いや、ほんとうの貴族ならばノブレス・オブリージュがあって然(しか)るべき、彼は利己的なだけと厳しい眼差(まなざ)しを向ける人もいた。

 筒美京平は無私の社会的行動を求められる高い場所に長くいた。これは事実である。

 だが彼は公的には寡黙を貫き、ただ曲を作りつづけた。作曲だけが自分に向けられる批判への唯一の回答であるかのように。

 遺(のこ)された膨大な楽曲群には、容易に「筒美メロディー」と括(くく)られることを拒むような、主体的な匿名性とでもいうべき意思の存在を感じることができる。詠み人知らずのまま世間に溶け込んでいく歌づくりを目指していたのではないか。

集めて、捨てて、編むという作曲技法

 ソングライターとして好相性だった作詞家なかにし礼は、筒美京平(というより渡辺栄吉という本名をもつ盟友)を、「ロラン・バルトふうに言えば『空虚な中心』の東京人」と評したという。

「その服、ユニクロには見えないね」がユニクロ着用者への最高の賛辞として成立するように、「この曲も筒美京平とは思わなかった」と言われることに京平先生は満足を得ていたようなふしがあった。

 ふだんから浴びるように最新の洋楽ヒット曲に触れ、それらのエキスを抽出、参照しながらオリジナル楽曲を構築していくのが京平先生の流儀だった。「松尾くん、参考楽曲はどんなに多くても困らないから」とよく言われたことを憶(おぼ)えている。

 とくに米国黒人音楽をインスピレーションとして彼が作りあげたダンサブルな楽曲群は、スリリングかつグルーヴィーな魅力が横溢(おういつ)しており、ぼくの偏愛の対象だ。

 背景に建国神話が控えるアメリカ西部劇の正義の味方に対して、イタリア製マカロニ(スパゲッティ)・ウェスタンのニヒルなアウトローがいるように、アメリカのソウルミュージックと対峙(たいじ)する東京人筒美京平がそこにいる。

 全部やって、ほとんど捨てる。

 筒美京平の「作る」とは、すなわち「集めて、捨てて、編む」であった。

 だからプロフェッショナルな音楽家の耳で細かく聴けば、いくつかの「編み癖」で楽曲群を大別することは可能である。

 だが、どうしてその編みかたを選んだか、それは誰にもわからないままなのだ。

 こんな話もある。

 初めてホテルのバーへお供した時のことだ。極度の緊張感がアルコールで一気に弛緩(しかん)したぼくは、あろうことか睡魔に襲われてしまった。はっと目を覚ませば、眠りに落ちる前となんら変わらぬ様子で静かにお酒を飲む京平先生がいる。

 失礼いたしました! あのう、ぼくはどれくらい居眠りしていましたか?「ぜーんぜん。いいよ、忙しい人は眠たいんだよねー」

 伝説のヒットメーカーはおだやかな笑みを浮かべた。

 おそるおそる腕時計を確かめると、はたして一時間近くも過ぎていたのだった。

(作家・作詞家、音楽プロデューサー 松尾潔)

 まつお・きよし

 1968年、福岡市生まれ。作家。音楽プロデューサー。作詞家。作曲家。平井堅、CHEMISTRY、JUJU等を成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。今年2月、初の書き下ろし長編小説『永遠の仮眠』を上梓した

 6月1日発売の「サンデー毎日6月13日号」には、他にも「ワクチン副反応不都合な5つの真実」「タイガース優勝へ『佐藤輝は田淵を超えバースになる』」「ながら筋トレで巣ごもり老化を防ぐ」などの記事も掲載しています。

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