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韓国・元徴用工訴訟「原告の訴え却下」は保守派判事の反乱か 澤田克己

相次ぐ異例の判決は文在寅大統領への「忖度」ではない Bloomberg
相次ぐ異例の判決は文在寅大統領への「忖度」ではない Bloomberg

 韓国の裁判所でまた、驚きの判決が出た。ソウル中央地裁が7日、元徴用工や遺族が日本企業16社に損害賠償を求めた訴えを却下したのだ。

元徴用工を巡る訴訟では既に、日本企業に賠償を命じる最高裁(大法院)判決が確定している。文政権下で進歩派主導となった最高裁への、保守派判事の反乱とも言える様相だ。保守派と進歩派の理念対立が司法にまで持ち込まれる背景には、激動の韓国現代史がありそうだ。

最高裁の判例と異なる驚きの判決

 判決は、1965年の日韓請求権協定によって元徴用工の問題も解決されたという立場を取った。個人の請求権が消滅したとまでは言えないものの、訴訟による権利行使は制限されると判断した。協定で解決済みだとする日本政府が「救済されない権利になった」と説明するのと同じ理屈だ。

 韓国政府も、もともとは「徴用工問題は協定の対象に含まれる」と解釈していた。文在寅政権になって揺らいでいる感はあるものの、従来の解釈を明確に否定したことはない。

 ただ韓国最高裁は2018年、協定では解決されていないとして日本企業に賠償を命じる判決を出している。最高裁の判例があれば、下級審ではそれに従うのが普通だ。下級審で違う判断をすることもできるが、社会情勢の変化があったり、実質的には同じ争点でも別の法的根拠で争われたりした場合が多い。この辺の事情は、日本も韓国も変わらない。

 だから、今回の地裁判決は想定外のものだった。原告を支援する団体は「特別な事情変更や追加の論理なしに(判例と)違う解釈をした」と批判した。協定解釈の妥当性とは別に、判例と下級審の関係を考えれば当然の反発だろう。

「日本への配慮」は文在寅政権への忖度なのか

 韓国の裁判所ではこのところ、日本との関係に配慮したかのような判断が続いている。

元徴用工訴訟の判決後、記者団の質問に応じる原告側の関係者
元徴用工訴訟の判決後、記者団の質問に応じる原告側の関係者

 元慰安婦をめぐる訴訟では日本政府に賠償を命じる地裁判決が1月に出て確定したものの、3月には判決の執行に事実上のブレーキをかける「決定」が出た。韓国内の日本政府資産を差し押さえることは「国際法に違反する恐れがある」という判断で、今回の元徴用工訴訟と同じ裁判長によるものだった。

 4月には元慰安婦による同種の訴訟で、主権国家は他国の裁判所の管轄に服さないという国際法の原則「主権免除」を認めて日本政府への賠償請求を却下する地裁判決が出た。

 文在寅大統領は1月の記者会見で、日本政府に賠償を命じた判決に「困惑した」と語っている。元徴用工の訴訟で差し押さえられた日本企業の資産を売却して現金化することも「望ましくない」と明言し、従来とは違う姿勢だと注目された。

 こうした経緯から、大統領の姿勢変化を忖度した韓国司法の動きではないかと考える人もいるようだ。しかし、判決の中身を見てみると、とてもそうは思えない。保守派と進歩派という理念対立が司法の場で展開されており、それが日本がらみの裁判で表面化したと考えた方がよさそうなのだ。

請求権協定による経済成長「漢江の奇跡」に言及

 4月に出た元慰安婦訴訟の判決は、慰安婦問題をめぐる15年の日韓合意を肯定的に評価し、合意に対する文政権の対応を批判するものだった。毎日新聞のサイト「政治プレミア」で詳しく紹介したが、判事が強い信念を持って書いたことがうかがえる。

 今回の判決も同じだ。進歩系である京郷新聞によると、判事出身の弁護士は「このように判断しなければ判事としての良心を守れないという信念に従って判決を下したように見える」と語ったという。政権への忖度とは対局にあると言えるだろう。

 わかりやすいのが「漢江の奇跡」への言及だ。

1973年に完成した韓国・浦項市の浦項製鉄(現POSCO)。建設には対日請求権資金の一部が充当された
1973年に完成した韓国・浦項市の浦項製鉄(現POSCO)。建設には対日請求権資金の一部が充当された

 請求権協定では日本が5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)の経済協力を供与し、請求権の問題について「完全かつ最終的に解決された」ことを確認した。

 日本は資金とともに技術協力にも応じ、韓国は経済成長にまい進した。西ドイツへの坑夫と看護師の出稼ぎ労働やベトナム戦争参戦への経済的見返りなどの要素も大きかったが、日本の経済協力が「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国の驚異的な高度成長に寄与したことは疑いない。だが韓国ではあまり知られていないし、文政権を支える進歩派は日本の貢献を認めることに消極的だ。

 一方で判決は「請求権協定で受け取った外貨はいわゆる『漢江の奇跡』と評価される世界の経済史に残る目覚ましい経済成長に大きく寄与することとなった」と評価した。

「国際司法で敗訴すれば国益に損失」という危機感

 法律論というより、政治的信念の吐露といえる部分も目についた。

 判決は、国際司法の場に持ち出して敗訴したら「韓国司法府の信頼に致命的な傷を負わせることになり、(経済規模で)世界10位圏に入ったばかりの韓国の文明国としての威信は地に落ちる」という懸念を示した。

 さらに、日米中露という大国に囲まれた分断国家という地政学的な位置に置かれた韓国にとって、国際司法での敗訴は「自由民主主義という憲法的価値を共有する西側勢力の代表国家の一つである日本国との関係毀損」につながると指摘。さらに「韓米同盟によって我が国の安保と直結している米国との関係毀損にまでいたる」という見方を示して、韓国の「安全保障」に害を与えかねないと憂慮を表明した。

 それだけではない。竹島と元慰安婦を加えた日本との三つの懸案について国際法廷で争えば、「すべて勝訴しても韓国として得るものはない。勝訴しても国際関係で難局にぶつかるであろう半面、一つでも敗訴すれば国の格および国益に致命的な損失を被ることは明白だ」と表明した。

 文政権を支える進歩派の考えとは全く異なる世界観だと言えるだろう。

民主化で起きた判事たちの混乱と「暴走」

 日本人の感覚では理解し難い韓国司法の動きの原点は、1987年の民主化にある。

 80年代初めに任官した韓国の元判事は数年前の筆者とのインタビューで、「韓国人は激動の時代を生きてきた。戦後の日本しか知らない人には想像できないような時代だ。裁判官もこの社会に生きる人間だから、無縁ではいられない」と語った。

 日本の読者にはピンとこない部分もあるだろうから、第2次世界大戦後の「激動の時代」を簡単に振り返ってみよう。

 45年に日本の敗戦で植民地支配から解放されたが、南北は分断された。50年に朝鮮戦争が起きて、ほぼ全土が戦場となった。60年には初代大統領の李承晩が不正選挙への抗議運動の高まりでハワイ亡命を余儀なくされ、61年に朴正煕がクーデターを起こした。79年の朴正煕暗殺後も軍部主導の政権が続いたが、87年に民主化を実現した。

 経済的にも朝鮮戦争後には、一人当たり国民所得が数十ドルという世界最貧国の一つだった。60年代後半以降に高度成長を始め、96年には「先進国クラブ」とも呼ばれる経済協力開発機構(OECD)入りを実現させたものの、97年に通貨危機に見舞われる。

 直後に発足した金大中政権は、国際通貨基金(IMF)の要求を受け入れて新自由主義的な経済政策に舵を切った。マクロ経済はV字回復を果たしたが、それまでも問題だった格差のさらなる拡大という副作用を生んだ。ただマクロ経済は、その後も順調に成長を続けた。今では世界10位前後の経済力を誇り、一人当たり国民所得は日本と同等になった。為替レートの取り方によっては、日本より上である。

 こうした変化の中で、司法を含む韓国社会全般に大きな影響を与えたのが民主化だ。

 開発独裁と呼ばれる軍部主導の政権下では、政権の言いなりになった人権無視の捜査と裁判が横行していた。気骨のある判事もいたが、あくまで少数派だった。

 それが民主化で一変した。国民の不信を意識せざるをえなくなった裁判所は自ら民主化を進める姿勢をアピールした。前述の元判事は「いきなり『裁判官の独立』とか、『法と良心のみに従って判決を出せ』と言われて戸惑った」と吐露した。

 外部からの圧力で判決が曲げられてはいけないというのは当然だが、それまでとの落差が大きすぎた。元判事は「いきなり裁判官の独立と言われたから、今度は『自分の思い通りにしていい』と暴走する判事が出始めた」と話した。

 彼は、政権批判の大規模集会で混乱が起きて建物やモノを壊した事件をたとえに出した。被告が多ければ、何人もの判事が分担して裁判を進めることになる。その時にある判事は「民主主義を重視すれば多少の器物損壊は仕方ない」と無罪判決を出し、別の判事は「やりすぎだ」と有罪判決になる。「昔だったら判事同士で調整したけれど、そんなことはなくなった」。

まったく読めない他の元徴用工訴訟の行方

 元慰安婦や元徴用工の訴訟をめぐる司法判断のぶれは、こうした事情をもろに反映したものなのだろう。

 元徴用工訴訟の流れを変え、原告勝訴の道を開いた2012年の最高裁判決はその典型だ。韓国紙・東亜日報によると、原告敗訴の高裁判決を破棄差し戻しとした判決を書いた判事は知人に「建国する心情で判決を書いた」と打ち明けたという。高裁でのやり直し裁判で原告勝訴となり、それが18年の最高裁判決で確定した。

 韓国の「法律新聞」電子版によると、ソウル中央地裁では今回の訴訟以外に19件の元徴用工訴訟が係争中だという。今回と同じような判決が続けて出たとしてもおかしくないし、判例に従う反対の判決が出ても不思議ではない。

 元判事はインタビューで「裁判官の独立を保証しながら、判事の判断が妥当なものに落ち着くようにしなければならないというのが、韓国司法の宿題だ」と語った。まったく同感だが、簡単なことではないだろう。韓国司法が日韓関係に影響を与える構図は、まだ続きそうである。

澤田克己(さわだ・かつみ)

毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数

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