追悼・千葉真一 あくなき挑戦者の愛と別離〈サンデー毎日〉
国際的なアクションスターとして活躍した千葉真一が、新型コロナウイルスによる肺炎のため82歳で死亡した。東映の宣伝マンとして支えた福永邦昭氏が、「あくなき挑戦者」の追悼文を寄稿した。
8月19日22時過ぎ、テレビ各社のニュースで、俳優千葉真一の悲報がオンエアされた。コロナ感染で入院、そのまま帰らぬ人となった。
報道によると、ワクチン接種を拒否したというが果たして、強靱(きょうじん)なアクションスターというイメージの一方、精神面では繊細なところがあった。
1959年「東映ニューフェイス」に合格した千葉真一は、波瀾(はらん)万丈の人生だった。
アクション俳優の育成(JAC=ジャパン・アクション・クラブ)や後輩俳優プロダクションに力を注ぐ一方、最初から志したハリウッドスターへ夢を追い続けた。テレビではアクションドラマ「キイハンター」や時代劇「柳生一族の陰謀」「影の軍団」が高視聴率をマーク、映画でも「仁義なき戦い」シリーズや「けんか空手」シリーズ、角川映画での評判で順調にスターへの階段を上っていく。
出演映画の大半を宣伝した私は千葉と波長が合い、公私混同する仲になった。
「キイハンター」で共演した野際陽子との結婚当時のことは強く印象に残っている。知性派の才女、野際と、体育系の千葉との結婚は周囲から意外と思われていた。野際は、アクションシーンを手取り足取り教える千葉に魅了されていた。
72年、ギリシャ・エーゲ海での船上結婚式は、私が雑誌社に独占取材で結婚資金の援助を依頼し、「結婚報告状」を全メディアに送付した。
2人は映画・テレビドラマ・テレビCMその他でも共演した。野心多き千葉は六本木でレストランやピアノパブを経営するが失敗、野際は穴埋めに奔走した。
22年後の94年の離婚劇。野際が突然私の自宅に現れ、離婚届の証人欄に押印してほしいと言った。翌日私は千葉を電話で説得した。文京区役所の手続きを済ませ、数日後ホテルで離婚会見をセッティング。私は司会進行をした。2人は手をつないでメディアの前に現れ、会見後は腕組みして会場を後にした。
千葉は常に前向きで、新しいことに挑戦した。何事にも全力で取り組むので、よくけがをしていたが、人生のけがも多かった。
千葉を慕う人は国内だけではなかった。ジャッキー・チェンは東映京都撮影所に2回も会いにきた。ハリウッドスターのスティーブン・セガールも尊敬を込めて「千葉先生」と呼んでいた。JACからは、志穂美悦子や真田広之、伊原剛志、堤真一らが育った。俳優だけではなく、東映の仮面ライダーや戦隊ものに欠かせない監督も生まれた。こうした貢献も記しておきたい。
ふくなが・くにあき
1940年生まれ。63年、東映に入社。洋画宣伝室や宣伝プロデューサー、宣伝部長を歴任し、2002年に退職