混乱の一因は秋篠宮さまにもある=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
緊急連載・社会学的眞子さまウォッチング!/5
眞子さま(29)と小室圭さん(30)の結婚がこじれた原因のひとつは、父親としての秋篠宮さまの対応にあると私は考える。昨年11月、結婚は「認める」と言いながら、結婚と婚約は違うとも発言。家と家との約束である納采(のうさい)の儀は行わない考えを示した。この発言は、秋篠宮さまが結婚になお後ろ向きであるかの印象を植え付けてしまい、バッシングの歯止めにはつながらなかった。
眞子さまの結婚は2018年2月、納采の儀の1カ月前、延期が決まった。その年の11月、記者会見で秋篠宮さまは次のように述べた。
「多くの人がそのこと(結婚)を納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは、いわゆる婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」
納采の儀は、明治時代に発明された「伝統」である。個人の自律を重んじる日本国憲法制定と同時に、廃止されるべきであったと考える。「皇室の正式な儀式のため、一般庶民の結納と比べるとはるかに重要だ」(『デイリー新潮』2021年6月6日)と書くメディアがある。だが、皇室内部で前例や慣習だけに拠(よ)って行われる儀式で、法的根拠は薄弱である。
21世紀の日本で仰々しい結納式を行う家こそ少数派だ。現代結婚において、家を背景にした結納の意義は薄らいでいる。
昨年11月になると、秋篠宮さまは次のように述べた。
「結婚することを認めるということです。これは憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています」
このあとに、「この間、娘ともいろいろと話す機会がありました。認めるというふうに申しましたのはそういうことの話し合いも含めてのことです」と述べた。父と娘で十分話し合い、「認める」という決断を下したことが分かる。
ところが、会見の最終盤、追加質問への答えのなかで「特に結婚と婚約は違いますから」とも漏らした。結婚は認めるが、納采の儀は行わず、その実、結婚に後ろ向きであるかのような印象を私は受けた。残念ながら、多くの人にとって、曖昧で両義的なメッセージとなってしまった。
会見に不足だったもの
アリストテレスの『弁論術』によると、すべての弁論は、①話し手②弁論の主題③聴き手からなり、弁論の目標は聴き手に向けられるべきである。自分の考えが聴き手にどのように受け取られるかまで想定することが重要なのだ。記者会見の場合、「国民」との対話であるという側面もある。こうした点から、秋篠宮さまの会見は一方通行の伝達の場になってしまったように感じた。
曖昧なメッセージであったため、「二人の意志を尊重する」と言い切らなかった言葉も、結婚反対の気持ちの表れと受け止められてしまった。
秋篠宮さまにお伺いしたい。家族で話し合い、昨秋の時点で〈結婚を認める。しかし、反対が多い世論に配慮して、一時金を辞退し、一連の結婚の儀式を行わない〉とお決めになったのではないですか。それならば、なぜ、結婚を認める根拠が「日本国憲法」になったのでしょう。喜んで娘の結婚を祝福し、笑顔で送り出すとなぜおっしゃらなかったのでしょうか――。
どんな父親も、娘の結婚は心配になる。だが、娘の選んだパートナーの善しあしに意見することは控える方が良い。家長権の行使は過去の遺物であると私は考える。
たしかに、戦前日本の皇族の結婚には「天皇の勅許(ちょっきょ)」が必要と家長権が明記されていた。それは戦前の話である。一般社会においても、戸主権は廃絶されている。
そもそも論になるが、「多くの人が納得し喜んでくれる状況」が実現しないことは最初から明らかであった。小室さんに対する人びとの「感情」は多様であり、理性的な議論によって、国民の総意が実現することは難しい。前週も触れたように、21世紀のこの国では「ひとつの皇室像」は存在しえない。大衆天皇制のもとでは重要であった「国民の理解」は、もはや期待できない現実を、誰もが受け止めるしかないのである。
そうであるならば、結婚延期という決定そのものが間違いではなかったか。2017年12月の『週刊女性』から始まった小室さんの母親の金銭トラブル報道。時間をかけて、小室さん側が説明を尽くせば、「国民」に正しい理解が広がっていくという前提が、時代錯誤となってしまっていた。
結婚延期などしなくても良かった。結果論であるが、延期しなければ、今ごろ、二人はニューヨークで平穏な暮らしをしていたはずである。ご病気も悪化しなかったかもしれない。
リベラル派の宮さま
秋篠宮さまはリベラル寄りの発言が注目されてきた。2018年11月の記者会見では、代替わりに伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、「宗教色が強いものを、国費(宮廷費)で賄うことが適当かどうか」と、天皇の私的費用「内廷費」から支出されるべきだと述べた。政教分離の原則を指摘した意見だ。また、「身の丈に合った儀式にすれば、皇室の行事として本来の姿」と、大嘗祭をより簡素な儀式にとも主張した。
リベラル派の宮さまが、なぜ、眞子さまの結婚に関しては、家父長的権限を発動されたのであろうか。おそらく、手塩にかけた娘の将来が心配であったからだろう。しかし、自らの迷いやためらいを公の場で述べるべきだったのだろうか。娘の結婚を祝っているという気持ちを明確にお示しになった方が良かった。
天皇や皇族の思いが年1回の記者会見だけで示されるというシステムそのものが、SNS時代に即していない。宮内庁長官や皇嗣職大夫(だいぶ)の記者会見やレクチャーも、もう少しメッセージを明確にすべきだ。皇族たちのお気持ちは「〇〇」であると「拝察される」という説明の仕方が時代遅れである。菊のカーテンの奥、御簾(みす)の向こうに皇室が鎮座した時代はとっくに終わっている。
11月にまた秋篠宮さまの記者会見がある。私がお聞きしたいのは、心からの祝福のお気持ちと若い二人へのエールである。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年、埼玉県生まれ。博士(文学)。毎日新聞で皇室や警視庁担当、CNN日本語サイト編集長、琉球新報ワシントン駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)など