困難に直面する日本経済、答えは戦国時代が示している=今谷明
世の中が大きく変化した時代の商業・ムラ・宗教…から今を知る=今谷明
激動の戦国時代に名をはせた智将の政策は今も色あせない
日本の中世・近世史を見た時、世間でいわれている戦国時代の始まりとされる「応仁の乱」の前と後で大きな変化があった。各地の大名が領国の民を直接、支配するようになった。農業や商業はすでに南北朝時代から室町時代にかけて変化しており、近畿地方を中心に、食料生産や物資の流通量が大きく拡大していた。商業などは応仁の乱でも打撃を受けておらず、むしろ戦乱を利用して興隆したともいえる。
また、応仁の乱の前から見られたが、ムラ=村の力が強かったのも一つの特徴だ。自治の色合いが濃く、村議会のような仕組みもあった。ここから「一揆」「下克上」という言葉も生まれた。
大名が領国を直接支配するようになると、村の力は次第に弱くなっていった。戦国時代は、大名も常に生死の問題に直面していたので、キリスト教が急激に広まった。おそらく仏教が説く慈悲の考え方では、目の前の現実に対応できなかったのだろう。
歴史学は、その時代を理解すると同時に、現代を理解するための学問だと考える。今の日本は経済も含めて、難しい状況に置かれているようだ。その一方で、最近は歴史の本が売れている。今の日本は調子がどうもおかしい。そうした時は歴史が振り返られる。ただし、中世に関しては史料が残されておらず分からない部分も多い。さらなる研究が必要だ。
(今谷明・国際日本文化研究センター名誉教授)
北条早雲(ほうじょうそううん) 「成長か分配か」 民の安泰掲げ関東の大国に
元は幕府奉公衆とも。姉は今川義忠(よしただ)の妻の北川殿(今川氏親(うじちか)の母)。姉を補佐するため駿河に赴く。後に伊豆を統一して独立。戦国大名の先駆けとなる。日本史上初めて政治スローガンを掲げ、領民の負担を軽減。1495年に小田原城を攻略し、北条氏5代100年の礎を作る。
寿桂尼(じゅけいに) 「女性の社会進出」 今川家の政務を代行する
京都の公家の中御門宣胤なかみかど (のぶたね)の娘。今川氏親の妻。夫氏親の死後、病弱の息子氏輝(うじてる)(嫡男)を支え政務を代行。独自の印判状を多数発行した。2人の息子(氏輝、彦五郎)が若くして死去すると、庶子の梅岳承芳(せんがくしょうほう)(後の今川義元(よしもと))を支持。1568年に駿府の今川館で死去(没年齢は80歳代と推定)。
織田信長(おだのぶなが) 「消費者ニーズの把握」 地道な課題解決で天下人に
尾張下四郡の守護代の奉行・織田信秀(のぶひで)の嫡男。織田一族の内乱に勝利し尾張を統一。美濃を征服後に足利義昭を奉じて京都に入る。畿内を統一し、浅井、朝倉、武田氏など周辺の諸大名を次々と滅ぼす。部下の明智光秀の謀反(本能寺の変)で自害。織田幕府を開く考えだったといわれる。
明智光秀(あけちみつひで) 「経営者と社員のあり方」 ささいな誤解が悲劇に
出自不詳。1571年ごろに足利義昭から織田信長の配下に移る。比叡山(ひえいざん)焼き打ちの功で、近江国志賀郡5万石を与えられ坂本城を築城。最終的には織田政権の“畿内方面軍司令官”(約250万石相当)に出世。1582年の本能寺の変で信長を自害させる。同年の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、退却中に死亡。