勢力拡大の基本は今も昔も「消費者ニーズ」の把握 織田信長
織田信長 素顔は「世評」意識する調整役 戦国の案内人 柴裕之
織田信長に現代人が抱くイメージは「時代の革命児」。実際はどうだったのか。(経済は戦国大名に学べ)
柴 信長の革新的な政策として「楽市楽座(らくいちらくざ)」や「関所の撤廃」などが挙げられるが、これらは他の大名も取り組んだことだ。信長は旧来の「座」も残している。信長はその地域で「座」がうまく機能していれば残して利用していく。一方、戦争で荒廃し人の流れや物流が行き詰まっている地域では、戦後復興対策として「楽市楽座」を導入した。さらに安土のような新たに建設した都市では市場興隆策として「楽市楽座」を導入している。
関所の撤廃も同じだ。当時の関所は関税を徴収していた。それが物流に支障をもたらす場合は撤廃したが、大消費地の京都では関所を残して物価の維持を図り、京都経済の混乱を防ぐことに努めた。
当時には珍しい。科学的・合理的思考の持ち主といわれる。
柴 そうした思考は、戦国時代を生きた人たち全般に見られた傾向だ。戦国大名は領域国家だから、大名は自国の存続を最優先に考える。信長が他の大名と違う点は、自国の存続を考えつつ、朝廷や室町幕府といった中央秩序の立て直しも考えて動いたことだ。
信長は最初から「俺が天下に号令する」と考えていたわけではない。ここでいう天下は日本の中央としてあった畿内、室町幕府を指すが、信長は流浪していた足利義昭を将軍に就けた後、「幕府の再建は成された。自分の役目は終わった」と考え、本拠の岐阜に帰ってしまった。その後、義昭と対立し、京都から追放した後も、「反省しているなら京都に帰ってきてもいい」と呼び掛けている。信長は次の足利将軍家をどうしようかと考えていた。
結局、義昭と和解できず、信長が実質的な天下人になった。
柴 これは朝廷の影響が大きいと思う。朝廷は「足利将軍家はもう自分たちの保護者たり得ない。信長に期待しよう」と判断し、信長に自分たちの存立保護を求めるようになった。信長もそれを意識して、天下人の立場を歩んでいく。
「外聞」重視が最大の美点
信長は鉄砲など革新的な戦術を導入したといわれる。
柴 誤解だ。信長の軍隊も他の戦国大名と同じで、信長は畿内に勢力を拡大した結果、京都や堺などの商業都市を押さえ、資金も豊かになったので、鉄砲など軍隊の装備も充実したというのが実情だろう。信長の軍隊は兵農分離していたというのも虚像で、実態は他の大名と同じだ。
現代人への教訓は。
柴 信長は「外聞」を非常に重視した。外聞とは世評のこと。これが、信長の一番優れているところではないだろうか。信長は決してその時代から外れているわけではなく、社会を根本から否定するような信長像ではない。社会の実情をしっかり見据えて、外聞を重視し、時代にかなったあるべき姿を求めて着実に対策を打つ。それが信長から学べることではないだろうか。
(柴裕之・東洋大学文学部非常勤講師)
(聞き手=和田肇・編集部)
■人物略歴
柴裕之(しば・ひろゆき)
1973年東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科博士課程。博士(文学)。専門は日本中世史。『織田信長─戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社)など戦国時代に関する著書多数。