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大隈重信没後100年・早稲田大×同志社大「トップ対談」全文㊤ 紫煙立ち込めた募金集会 大隈は新島の体を気遣い…〈サンデー毎日〉

大隈重信
大隈重信

 2022年は大隈重信の没後100年に当たる。節目の年に、「サンデー毎日3月20日増大号」(3月8日発売)では、大隈が創設した早稲田大学の田中愛治総長と、大隈と親交の深かった新島襄が創設した同志社大学の植木朝子学長の対談を掲載した。今回は私学の「東西の雄」のトップ対談の全文を、上下2回にわたって掲載する。まずは近代高等教育の〝巨人〟とも言える大隈と新島の交流から……。

 創設期から始まった早稲田・同志社の深い交流

――大隈重信と新島襄は元々深い交流があり、同志社の創立に当たっては、大隈が物心両面で援助したということですね。

田中 NHKの大河ドラマ『八重の桜』でも、大隈が新島先生を財務的に助けるという場面がありました。経済的に困窮している同志社英学校を盛り立てるために寄付を集める奉加帳を回したと。

 実は、私の恩師である内田満教授が晩年に記した『政治学の一源流』という著書に登場する方々の多くが、同志社のご出身なのです。「明治14年の政変」で伊藤博文総理によって大隈は在野に下ることになった。その時に東京専門学校を創るために東大から来ていた高田早苗、天野為之、坪内逍遥の「早稲田の三尊」が、早稲田の源流である東京専門学校で教鞭をとり、英語でも講義をしていたのです。これも禁じられた後、早稲田では家永豊吉先生という同志社英学校出身の方が教壇に立った。

 内田教授は『政治過程論』という科目を、早稲田で日本で初めてつくりました。その「政治過程論の源流を探る」という項で、早稲田政治学の源流を辿ると、家永豊吉先生にたどり着くと記しています。このほかにも浮田和民先生、早稲田の野球部を創設した安部磯雄先生など、新島先生の薫陶を受けた方々が早稲田の教壇に立たれたのです。家永先生と浮田先生は当時の米国の最先端の現代政治分析を、日本に紹介されました。

 日本の政治学は「明治14年の政変」で、東大が英国・米国派を排除し、ドイツ国法学に傾倒します。そして、ドイツの政治学や法学、国家学の源流が日本の主流となり、ほとんどの大学では法学部の中に政治学科が置かれることになります。その中で、早稲田だけは英国流の政治経済学を踏襲した。これは、大隈や彼を助けた小野梓先生が英国流の考え方を採ったからです。さらに、家永・浮田両先生が、米国政治学の最先端の流れを早稲田に採り入れた。このことがなければ「日本には米国政治分析が入ってこなかっただろう」と内田教授は述べています。このように、同志社出身の家永・浮田両先生、さらには安部先生のおかげで、早稲田政治学が確立されたということを我々は学んできました。

新島襄
新島襄

植木 同志社にとっては、大隈先生が募金集会を開いてくださったことが、新島との交流のハイライトと言える出来事だと思っています。新島の大学設立運動に共鳴した井上馨氏と大隈先生のお二人が明治21(1888)年7月19日、経済界の重鎮を官邸に招いて寄付を募った結果、その場で3万1000円もの寄付の申し込みがありました。新島はそのことを「同志社大学設立の旨意」という文章に記しています。

 大隈先生は新島の「二十回忌に際して新島先生を憶ふ」という文章を同志社時報に寄せてくださっています。その中にも「先づ余は先生の計画を一同に紹介し、資力ある国民は奮て之を援助せんことを望む旨を陳べ」たとあります。同じ文章に、募金集会の際、新島は大変具合が悪そうで、顔色蒼白、身体もやせ細っていたにもかかわらず、「鉄石の如く熱火の如き大精神」を持っていたと書かれています。また、来場者が盛んに喫煙したため、会場に紫煙が立ち込め、新島が苦しそうだったので、給仕に窓を開けさせたという記述からは、大隈先生の優しさが伝わってきます。このように、教育の道に尽力するという共感を持って、物心両面で大隈先生が新島を支えたということに、私は大変、心を打たれました。

 新島からは『漫遊記』という記録の中で「大隈伯が同志社が諸事整頓していて、内外の教員が一致協力しているという点に感心したと述べてくださった」と記しています。

田中 大隈が「明治14年の政変」で下野した原因は民撰議院の設立を、すなわち国民が議員を選んで設立する国会の開設を、唱えたことにあるわけです。その時に大隈が考えたのは、日本の近代化のためには二つのことが必要だということでした。

 一つは政党政治、健全な野党が政権を担う与党に対立する軸を掲げて国会開設を目指すことが重要だと。もう一つは、国民が政治家を選ぶには国民の質を上げ、それを受け入れられるシステムをつくらなければならず、そのためには高等教育が必要だというものです。その際、大隈が師として仰いだのが、自分よりも教育者としての先達であり、専門家でもある福沢諭吉先生と新島襄先生でした。日本の近代化のために高等教育を進めるに当たり、福沢先生にいろいろと教えを乞うと同時に、新島先生の教え子である家永先生や浮田先生ならびに安部先生を東京専門学校に招いた。家永先生や安部先生は留学経験があり、留学先の米国の最先端の学問を早稲田に紹介してくださったわけですが、草創期の同志社の卒業生は英語で卒論を書き、発表するなど非常に能力が高かったとのことです。そうした方たちの力を借りようと思った大隈も非常に開明的だったと思います。

植木 新島が国禁を犯してまで米国に渡ったという点は、やはり非常に開明的だったと感じています。彼にとってキリスト教も大きな存在だったと思います。米国の先進的な政治学や自然科学といった学問を吸収した上で、キリスト教主義に基づいた「徳育」の部分を重視している点を顧みると、我々も創立者の想いを受け継いで、一人の人間としていかに教育に携わり、どのような人間を育てていくべきなのか、不断に考え続けなければならないと思っています。

同志社大学・植木朝子学長
同志社大学・植木朝子学長

 大隈・新島の遺志を受け継ぎダイバーシティーを推進

――新島がさまざまな人々と交流のネットワークを築き、反対勢力からも受け入れられたというのは、新島の人間性によるところが大きいのではないでしょうか。

植木 新島は、徳育の基本をキリスト教に置いただけで、他の宗教を否定しているわけではありません。こうした寛容性、多様な考えや生き方を認め、受け入れていくという姿勢は、まさに現代のダイバーシティー(多様性)に通ずるものがあると思います。

田中 大隈もやはり開明的であると同時に、多様性を受け入れる素地はあったようです。かなり早くからアジアに門戸を開いたのは早稲田の特徴です。1905~10年までの間、清国留学部をつくって、中国や韓国をはじめとするアジアの国々からおよそ3000名の留学生が早稲田で学んだということです。これが、早稲田が東アジアで名声を得ることにつながった。早稲田を発展させた一つの原動力になったと思っています。

 また、当時、東京帝国大は英語で授業を行い、テキストも英語だったと言われていますが、早稲田は高田早苗を中心として、海外の先端の政治学や法学、経済学を日本語に訳し、日本語で高等教育を進めた。このように、母語で高等教育を行ったのはアジアでは日本が最初で、先鞭をつけたのが早稲田だった。これは『早稲田大学講義録』として全国に配布され、全国各地から早稲田で学びたい若者が上京した。これこそ現代の国際化につながる早稲田の多様性の第一歩で、今ではアフリカや中東、南米、東欧など世界各地の留学生が早稲田で学んでいます。

 早稲田は日本で最初に「GS(ジェンダー・アンド・セクシャリティー)センター」を2017年に設立しました。男女共同参画はもちろん、性的少数者も自由に学べるような環境を整備しました。来たる4月1日からは職員が(佐賀県)唐津や北九州のキャンパスに赴任する時に異性だけでなく、同性のパートナーを連れていくことにも費用を出すことにしました。このように、創設時からの伝統を受け継ぎ、早稲田は多様性を広く受け入れる方向に進んでいます。

早稲田大学・田中愛治総長
早稲田大学・田中愛治総長

――同志社大は入試で障害のある受験生も受験できる体制の整備に、いち早く取り組んで来ました。ダイバーシティーの推進にも取り組んでいますね。

植木 目が不自由な学生も受験できるよう、1949年に国内で初めて入学試験における点字受験対応を開始するなど、早くから体制整備に努めてきました。今年度からは「スチューデントダイバーシティ・アクセシビリティ支援室」(SDA室)という学生支援のための組織を立ち上げ、多様な性自認・性的指向を持つ学生のための相談窓口も設置しました。本学は元々、障がい学生支援に力を入れてきましたが、今後は男女共同参画に加え、性的少数者を含めた多様な背景を持つ学生や教職員の生きづらさを軽減し、それぞれが自分らしく輝けるような「ダイバーシティキャンパス」を推進していきます。

田中 早稲田大にも障がい学生支援室がありますが、同志社大はいち早く障がい学生支援センター(現在はSDA室に統合)を立ち上げられ、本学もモデルとして参考にさせていただきました。私が総長になった直後の2019年の入試では、理工学部を全盲の学生が受験しました。その際、朝4時から点字の翻訳者に来てもらって、問題を点字化してもらいました。その受験生は合格し、ガスバーナーを使った実験などにも取り組んでいます。このように、卒業までのサポート体制もしっかり組んでいます。また、植木先生は同志社のご出身ではないですね。他大学出身者の女性を学長に据えるという姿勢も、同志社大学のダイバーシティーに対する先進性を表していると思います。

植木 ジェンダーに関しては、私は2015年に文学部長に就任した時、本学初の女性学部長と言われました。2017年には初めての女性副学長となり、今に至っています。現在は、17学部長・研究科長のうち5人が女性であり、執行部における女性の役職者も増えてきました。副学長の中の1人は女性です。それぞれが経験を積む中で、自然な流れができていくことが望ましいと思っています。

――早稲田大は2021年度入試(21年4月入学)から一般選抜で、大学共通テストの数学を必須として話題になりました。同志社大も早くから記述式の問題を採り入れ、思考力を重視した入試を行うなど、入り口の段階から社会にメッセージを発信して来ました。

田中 本学が、政治経済学部の入試科目で数学Ⅰ・Aを必須としたのは、政治経済を学ぶ上で、数学的なものの考え方が必要とされるからです。18年度からは政治学科でも統計学入門を必修としましたが、04年にできた国際政治経済学科では、当初から統計学入門、経済数学入門、ゲーム理論入門を必修としていたのです。このように政治系学科でも授業で統計学など数学的な理解力を必要とするようになってきた。それが拡大していったとも言えますが、今や社会の潮流とも合致することになった。すなわち入試改革というよりも、目指す人材育成に必要だという観点から導入したわけです。

植木 記述式問題は小手先の受験テクニックでは通用しない。受験生が文章全体を理解しているかを確実に把握できますし、数学の証明問題なども全体を俯瞰して見られているかどうかを測ることができる。今後も記述式問題は大事にしていきたいと思っています。

大隈重信(1838~1922年)

 父は佐賀藩士。志士として活躍して明治維新後、参議や大蔵卿を務めるが、1881年に辞任。翌82年に立憲改進党を組織し、早稲田大の前身となる東京専門学校を創立した。88年には外相となり、98年と1914~16年に首相も務めた

新島襄(1843~90年)

 父は上州(群馬県)安中藩士。64年に密航して渡米し、ヨーロッパでも学び、キリスト教の洗礼を受けて帰国。75年に同志社大の前身となる同志社英学校を設立した。同年に婚約した妻八重は2013年に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公

たなか・あいじ

 1951年生まれ。75年早稲田大政治経済学部卒。米オハイオ州立大大学院政治学研究科博士課程修了、Ph.D.(政治学)取得。東洋英和女学院大助教授、青山学院大教授、早稲田大政治経済学術院教授などを経て現職

うえき・ともこ

 1967年生まれ。90年お茶の水女子大文教育学部卒。同大大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻単位取得退学、博士号(人文科学)取得。同志社大助教授、教授、文学部長、副学長などを経て2020年から現職

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