サンデー毎日が報じた皇室 「平民」と「恋愛」の100年 社会学的皇室ウォッチング!/29=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
サンデー毎日が100周年を迎えた。大衆化社会が本格化した1922(大正11)年に創刊された本誌は、平民化する皇室を伝えるとともに、皇族の「恋」を報じていった。皇室報道はサンデー毎日の柱の一つだと言っても過言ではない。
創刊の22年4月2日号には、英国皇太子(のちのエドワード8世)来日を控え、さっそく宿舎の赤坂離宮(現・迎賓館)やお召し列車の写真が掲載されている。次号には「お側(そば)へ寄るとのどかな春の心地する英国皇太子殿下」と題する記事が載り、4号まで英国皇太子関連の写真が続く。
その前年、20歳の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が訪欧した。英国でゴルフや魚釣りに興じる皇太子の姿は、映画(活動写真)として撮影された。サンデー毎日の発行元、大阪毎日新聞社は上映隊を組織して、都市から村々まで巡回し、この映画を映写した。
英国皇太子の来日はその答礼であった。サンデー毎日の記事は「何時(いつ)でもニコニコで剽軽(ひょうきん)な事を云(い)つては人をお笑はせになります」と英国皇太子の平民的な姿を紹介している。
当時の「平民」皇族と言えば、裕仁皇太子の弟、秩父宮であった。23年1月14日号は、新潟県の赤倉温泉でスキー術向上に励む姿を伝えた。毛糸の帽子をはじめとする質素な服装、木でできたストック、前に駆動する力強さ……。素朴な趣が伝わってきて、当時の皇室が、いかに平民性を強調しようとしていたのかが分かる。
美貌の皇族姉妹も誌面に
サンデー毎日は、新婚や未婚の女性皇族にも注目した。創刊からの半年を見ると、朝鮮王族の李垠(イ・ウン)と結婚した方子(まさこ)女王(当時20歳)が4月30日号と5月7日号、裕仁皇太子と結婚する久邇宮(くにのみや)良子(ながこ)女王(当時19歳)が5月21日号、美貌が注目を浴びた双子皇族、伏見宮敦子・知子の両女王(当時15歳)が8月20日号と、多くの写真が紹介されている。
文芸評論家、厨川(くりやがわ)白村が書いたベストセラー『近代の恋愛観』が刊行されたのはまさに22年である。その冒頭は「ラブ・イズ・ベスト」で始まる。翌年、作家の有島武郎(たけお)が情死する事件が起こり、サンデー毎日も大きな特集を組む。
大正期、前近代的な旧来の「家」意識を脱却し、夫婦中心の「近代家族」が新中間層の間に広がっていく。近代家族は、郊外の文化住宅で「家庭」を営む。都心に通勤する俸給生活者である夫と、専業主婦の妻からなる。夫婦は子供の教育にも力を入れる。創刊早々のサンデー毎日には、中学校・高校(当時は旧制)受験の特集も多い。モダン大正の近代的な夫婦に読まれる雑誌であったのだ。
そのなかで、結婚は、自発的な意思と対等な男女関係に基づくべきだと考える価値観が生まれてくる。当時の「恋愛」という言葉は、現代的な意味とは、異なるニュアンスを持つ。本人たちの意思が少しでも含まれれば、それは「恋愛」と呼ばれる傾向にあった。お見合いをして結婚に至ったとしても、交際の期間を経て愛情が育(はぐく)まれていれば、十分に「恋愛結婚」と呼び得た。大正期は恋愛の時代であった。
1921年、筑豊の炭鉱王、伊藤伝右衛門(でんえもん)の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)の駆け落ち事件があった。不倫、自由恋愛である。価値観の大きな変化のなかで、結婚という社会秩序を壊しかねない自由恋愛は社会にとっては困ったものであった。社会の課題は、恋愛感情をどう制御するかにあった。そこで大流行したのがお見合いである。出会いを制御しながら、それを恋愛に結び付けていく制度である。
皇族の結婚もまた社会のモデルであった。柳原白蓮(大正天皇の従妹(いとこ)に当たる)のような自由恋愛ではなく、社会秩序の枠内にありながら、なおかつモダンで対等な男女関係を見せるための規範的存在、それが若い皇族だったのである。
アイドル化する皇族
裕仁皇太子と良子女王の結婚も関心を集める。結婚前年の23年5~6月、久邇宮家は良子女王を連れて四国・九州を中心にした西日本旅行を敢行した(33日間)。良子女王の社会勉強のためだが、未来の皇太子妃・皇后を人びとにお披露目する目的もあった。旅行には、大阪毎日新聞活動写真班が同行し、その日に撮影したフィルムを訪問地で即夜公開するという大がかりなイベントを行った。
上映会は、都市の公園や学校の校庭など屋外で開かれることが多く、観衆が数千人に膨れ上がることもあった。スクリーンに映る良子女王はまさに大衆化時代にアイドル化した女性皇族である。
5月27日、良子女王は両親らとともに大阪市を訪問し、大阪毎日新聞社も訪れた。私物カメラを使い、旅先で写真を撮影していた良子女王は、一部のフィルムの現像を大阪毎日新聞写真部に依頼していた。良子女王は、現像し引き伸ばされた写真を見てニコニコ顔で家族と談笑したという。訪問を伝えたサンデー毎日(6月3日号)によると、写真場では、グラビア製版の工程も見学したというから、本誌の制作過程も学んだことだろう。
サンデー毎日は結婚の直前にあたる24年1月6日号の表紙で、「おもひでの春」と題した写真を掲載する。5歳の良子女王、妹である4歳の信子女王の写真を、大胆にも表紙に使用した。
当時、商業雑誌には多くの皇族写真が掲載されていたが、表紙に使われることはなく、この決断はかなり大きいものであった。慌てたであろうライバル誌の週刊朝日は、半月遅れで裕仁皇太子と良子女王の肖像写真を表紙に並べ対抗した。両誌の挑戦から、メディアの世界におけるタブーや遠慮の意識は徐々に薄れていく。
サンデー毎日で印象的な表紙は24年5月4日号である。良子女王のもうひとりの妹、久邇宮智子(さとこ)女王が、東本願寺の大谷光暢(こうちょう)氏のもとに嫁ぐ直前の写真であった。並んでいるのは信子女王だ。堅い肖像写真ではなく、笑顔のスナップ写真である。可愛いいモダンな柄のそろいの着物と日傘が印象的だ。
大衆化時代が本格化した大正時代に登場したサンデー毎日は、「平民」と「恋愛」の皇室を報じ始め、それは人びとの広い支持を得ていたのである。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など