低調な「憲法と皇室」議論 皇族の自由をどう考えるか 社会学的皇室ウォッチング!/33=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
5月3日の憲法記念日。天皇制の問題は、憲法と大きく絡むが、ジャーナリズムや学界の関心が高いとは言えなかった。
『読売新聞』の世論調査が、天皇制と憲法の関係を聞いている。全国の有権者3000人を対象にした郵送での調査で、有効回答は2080、回答率69%。
「天皇の皇位継承などを定めている皇室典範を改正して、女性の天皇を認めることに、賛成ですか、反対ですか」との質問に、賛成は70%、反対は6%、どちらともいえないが24%だった。また、「皇族の養子縁組を可能にして、旧皇族の男系男子を皇族にする」という案に、賛成は25%、反対は21%、どちらともいえないは53%、答えないが1%であった。
以前の各種調査と比べると女性天皇容認の比率は若干落ちている。また、二つの質問とも「どちらともいえない」とする回答者が多い。人びとは、迷っている。これに対し、判断の材料を提供するのがジャーナリズムの役割だと思うが、残念ながら、議論を深めようとするメディアの企画は、見当たらなかった。
「眞子さま問題」を受け、皇族の自由と憲法の関係も考えるべき大きなテーマになってよさそうだが、機運は盛り上がっていない。
憲法第24条は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」と婚姻の自由を定める。2人の合意以外、例えば、親や周囲の意向などで、結婚の自由が妨げられてはいけない。
だが、果たして皇室の場合はどうか。
東京都立大の木村草太教授は、「皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。(略)女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではな(い)」「『婚姻の自由がある』と言いたい気持ちはわかりますが、日本国憲法下の天皇制と考えると、あまり一般的な見解ではないと思います」と述べている(『AERA』昨年11月1日号)。
女性皇族の婚姻の自由は憲法上の権利ではないとの見解だ。
「国民」でない皇室
これには、天皇・皇族が人権の享受主体である「国民」に含まれるかどうかという議論が背景にある。
天皇も「国民」であると考える憲法学の芦部信喜(あしべのぶよし)氏(1923~99年)は、「天皇・皇族も、日本の国籍を有する日本国民であり、人間であることに基づいて認められる権利は保障される」とした。ただ、皇室メンバーという特殊性から最小限の制限は認められると考えた(『憲法』第7版、岩波書店、2019年)。
一方、日本国憲法下の政治体制は、世襲の天皇制という「身分制の飛び地」を残したと考える学者たちもいる。天皇・皇族は「国民」ではなく、人権は保障されないと考える説である。
近年、後者の学説が有力になりつつある。「国民」と皇室を切り分け、皇室には憲法の人権条項は及ばないと整理したほうが、憲法解釈として曖昧さを排除し、スッキリしているためだ。木村教授らリベラルな研究者もこちらの説を採用することが多い。天皇制は本来、なくてもよいという前提があるようにも感じる。
小室眞子さんは、圭さんとの結婚を希望した。ところが、「国民」が納得し喜んでくれる状況にないとして、結婚にハードルが置かれた。金銭トラブルに対する「国民」への説明などである。
「皇室は『国民』でない」説に立てば、自由の制限は「仕方がないこと」になる。将来、女性宮家が創設される制度変更があった場合、女性皇族の結婚も皇室会議の議を経なければならなくなるだろう。女性皇族の結婚はさらに自由が制限される。それも「仕方がないこと」になる。
眞子さまが苦しんだのは、婚姻の自由の制限だけではない。批判されても反論権がない。表現の自由も規制され、「『国民』を敵に回すような言い方はどうか」と批判を受ける。外出は一部週刊誌などの隠し撮りの対象であり、プライバシー権も侵害されていた。こうした事態を「皇族だから仕方がない」と言ってしまうのは、リベラル憲法学として、少し冷酷ではないか。
戦後民主主義の転換
実は政府は、天皇・皇族に人権は保障されると解釈してきた。内閣法制次長だった高辻正己(まさみ)氏は、「一般的にいえば、基本的人権の享有を受けられるということは当然」と答弁した(衆議院内閣委員会1963年3月29日)。
女性皇族の結婚について言えば、天皇の裁可(さいか)(勅許(ちょっきょ))の問題がある。明治の皇室典範には「皇族の婚嫁は勅許に由(よ)る」という規定があった。女性皇族と結婚する相手の家に対し、天皇が、勅許書を交付する手続きがあったのだ。
戦後の1950年、昭和天皇の三女、孝宮(たかのみや)(のち鷹司和子さん)が結婚するとき、裁可が婚姻の自由を定めた憲法と整合しないことが問題となった。ときの田島道治(みちじ)宮内庁長官は、昭和天皇に対し、「今日、勅許は必要でないばかりか、妥当ではありません。内部的書類として勅許を仰ぐ形にします」との趣旨を説明し了承を得た(『昭和天皇拝謁記』同年2月7日条)。
つまり、婚姻の自由は女性皇族にも適用されると考え、裁可はあくまで、建前にすぎないため公表しないと定められたのだ。戦後民主主義的雰囲気が強かった敗戦直後、女性皇族の結婚になお裁可があることが、もし表沙汰になっていたら、婚姻の自由との関係で問題になっただろう。
しかし、紀宮(のりのみや)(のち黒田清子(さやこ)さん)の婚約発表(2004年)以降、裁可は公表されている。眞子さまのときは、「天皇が裁可した婚約だから、破棄できないのでは」とする論調さえ現れ、裁可は実態として機能し始めている。 戦前の天皇制のあり方の反省のうえに成り立つ日本国憲法は、皇室を封じ込める機能を果たしてきた。しかし今、憲法は天皇・皇族の人権を侵害するものとなっている。戦後民主主義の転換に、憲法学は対応できていない。
眞子さま問題が明らかにしたのは、憲法の矛盾だ。天皇・皇族は、生身の人間である。恋もすれば、意見もある。その自由をどう考えるのかという議論が、今、必要ではないか。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など