《ウクライナ戦争で知る歴史・経済・文学》「核戦争」寸前だったキューバ危機 なぜ世界は破滅を回避できたのか?=下斗米伸夫
キューバ危機の真実 核戦争に最も近づいた13日間 ケネディとフルシチョフの暗闘=下斗米伸夫
1962年10月14日、米軍スパイ機U2がキューバで取った写真はケネディ米大統領を驚愕(きょうがく)させた。ソ連が同地に攻撃核ミサイルを持ち込んでいる疑いが濃厚になったからである。(ウクライナ戦争で知る歴史・経済・文学 特集はこちら)
それから数日、大統領の弟ロバート・ケネディ司法長官やマクジョージ・バンディ大統領補佐官(国家安全保障問題担当)などの政権ブレーンたちによる精査と討論を経て、ケネディ政権は次のように決断した。
これ以上の攻撃兵器の持ち込みを海上封鎖で阻止し、ミサイル撤去をソ連に求めると世界に訴えた。世界は核戦争の危機におののいた。ハリウッド映画「13デイズ」(2000年公開)などでも描かれたようにキューバ危機は冷戦期最大の危機だった。核を所有している米ソが使用するおそれが実際に高まった。
秘密作戦「アナデュル」
50年代半ば、ソ連では「世界大戦が不可避である」という「スターリンのドクトリン」が放棄され、代わってフルシチョフ第1書記らはスターリン批判をきっかけに米ソの「平和共存ドクトリン」を出した。これにより大幅な軍縮が可能となった。もちろん事態はそれほど単純ではなく、56年のハンガリーやポーランドでは民衆反乱が起きた。ミサイル開発は米ソ双方で続き、60年代の初めにはU2型危機やベルリン危機で東西関係は混乱した。
とりわけ最大の問題は「核ミサイルによる抑止体制」への移行であった。つまり米ソともに核保有国となり、「核に依拠した安全保障」へと変化した。この問題では米国の核開発と配備が先行、何よりも北大西洋条約機構(NATO)を通じて欧州での前進配備基地は抑止力を配備していた。
ソ連も50年代から大陸間弾道弾などミサイル開発を進めるものの、米本土の間近から米本土を直撃する基地はなかった。一時は人工島を米国近くで作る計画もあったという。59年にキューバで革命家フィデル・カストロ率いる民衆革命が起きたことはソ連に絶好の機会となった。
キューバ革命政権の誕生後、米国に逃れた亡命派(キューバ共産化によって地位や資産を奪われた富裕層)をめぐり米ソ関係は緊張した。ケネディ大統領は、61年6月のソ連のフルシチョフ首相との首脳会談で介入した誤りを認めた。
他方でソ連は、米国から130キロしか離れていないキューバに核ミサイルを搬入する計画を進めた。このために5月にはウズベキスタンのラシドフ書記率いる代表団を派遣した。その目的とは、実際には核ミサイルの戦力で「17対1」と劣位に立つソ連側が、一挙に、対米抑止のバランスを図ろうというものだった。核ミサイル基地建設計画は、4万人ものソ連軍人を導入する秘密作戦「アナデュル」と呼ばれた。ミサイル導入計画はフルシチョフ氏が進めたのであり、カストロ氏が頼んだものではなかった。
しかし、基地の完成が間近に迫った頃、米スパイ機によりケネディ政権の知るところとなった。ケネディ大統領は、「ソ連の挑戦に対しては応じる」との態度を示し、キューバからミサイルを撤去することが最優先の課題となった。
他方、フルシチョフ氏からすれば、中南米など第三世界を含めキューバの革命政権をソ連陣営から失うことはイデオロギー的に許すことはできなかた。ソ連の最高会議幹部会のアナスタス・ミコヤン氏はミサイルを導入した目的を、「ソ連は武器を抑止のため、キューバの国防力強化」などのために置いたのであって、米国攻撃のためではないと指摘している。
結局、米ソの意見はかみ合わなかった。こうして10月17日にケネディ大統領は海上封鎖を宣言した。幾人かの外国首脳と議会指導者には情報が提供された。
10月22日から27日に緊張が緩和するまで世界は核戦争の恐怖におののいた。結局フルシチョフ氏は、トルコの米国軍基地から半年後にミサイルを引き揚げることを条件に基地撤去を決め、28日に公式にミサイル撤去を表明した。実際には、59年からアイゼンハワー米大統領がトルコに持ち込んでいた「ジュピター・ミサイル」との交換という形を取った。
フルシチョフ氏は自身の冒険的政策によって、2年後に失脚の憂き目に遭う。ミコヤン氏が政治局を代表して10月に引導を渡し、ブレジネフ氏が後を継いだ。他方、ケネディ大統領は約1年後の63年11月に暗殺される。この暗殺事件とキューバ危機との因果関係は分からない。
戦術核が運ばれていた
危機のさなか、ミコヤン氏がソ連の特使としてホワイトハウスでケネディ大統領と会談した際、依然として核について語っていないことに注目したい。
ミコヤン氏は、キューバでの武器供与を米国に知らせたが、「いかなる侵略的意図も持たず、米国攻撃のために使うこともしなかった」と語った。だが、ケネディ大統領は、「去年(61年)夏にも、タス通信の報道で、『ソ連はキューバに攻撃兵器は置かない』と言っていた。同じことをドブルイニン・ソ連大使もロバート・ケネディ司法長官に伝えた。(それなのにキューバにミサイルを持ち込もうとしたので)これは欺瞞(ぎまん)だ」と抗議した。
ケネディ政権のバンディ補佐官は、この13日間を通じて「核戦争の可能性は実際高かった」と指摘している。実際、当時、ソ連がすでに中距離ミサイル核用の核だけでなく、航空機搭載核兵器や戦術核兵器100発までキューバに持ち込んでいた。このことはソ連でゴルバチョフ氏が実権を握った後、米ソが協力してキューバ危機を検証するまで公にはならなかった。キューバ危機時、米国はその事実を知らずに、ソ連に対し強硬策に出ていたのである。
核戦争回避に奔走したバンディ氏をはじめとする、ケネディ政権とそれを継いだジョンソン政権で安全保障政策を主導した政府高官たちは、「ベスト・アンド・ブライテスト(最良の、最も聡明(そうめい)な人々)」と呼ばれた。
その後、米ソ双方は、この状況を繰り返そうとは考えなかった。キューバ危機は、その後、米国とブレジネフ体制となったソ連との「戦略的対等」へと至った。いわゆる60年代末からの「デタント(緊張緩和)」での安定が目指された。米国は技術的優位を持つことを否定しなかったが、それでも両者は全欧安保や核ミサイルでの戦略交渉のメカニズムを70年代半ばに完成させ、東西関係は安定することになった。
(下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授)