《ウクライナ戦争で知る歴史・経済・文学》キーウ市内は安全だが、食料は十分でない=ボグダン・パルホメンコ(キーウ在住活動家)
インタビュー ボグダン・パルホメンコ(キーウ在住活動家) 市内は安全だが食料が足りない
日本の募金で現地に「支援の輪」
ウクライナの首都キーウ(キエフ)から現地の様子をオンラインで伝える活動家に話を聞いた。
(聞き手=稲留正英・編集部)
── ウクライナの首都の現在の様子は。
■今日は4月11日だが、朝と夜、我々が起き始めるタイミングと、寝始めるタイミングに大きな爆音が入るのが日常化している。ロシアがミサイルを発射し、それをウクライナの地対空ミサイルが撃ち落とす音だ。しかし、回数は限られてきている。ミサイルさえなければ、キーウ市内は安全という理解で正しい。
市長は「キーウに戻らないで」と言っているが、すでに長蛇の列の車がキーウに入ってきている。私もポーランドに避難している友人に、「戻りたいが、どうか」と聞かれたが、まだ、早いと答えた。食料も飲み物も限定されている。今、200万人だからもっているが、これが、300万人、400万人と増えると対応できない。デリバリーのアプリでご飯を頼んでも、メニューがどんどん減っている。この1週間でメニューの数が3分の1程度に減った。(ウクライナ戦争で知る歴史・経済・文学 特集はこちら)
── お店は開いているのか。
■どうにかオープンしている状況のお店は全体の15%、20%くらいに感じる。戦争だから何も機能していないと思われているが、デリバリーはこの2週間は使えている。レストランの人などは経済活動をしないと食べられない。日本みたいに貯蓄があればいいが、ウクライナは半分以上の人がその日暮らしだ。ウーバーのデリバリーをして生計を立てている若い子たちがたくさんいる。だから、デリバリーで食事を頼むと、レストランにもデリバリーの子にもお金が回るようになる。
「コサック魂」で死ぬ覚悟で戦う
── キーウから中継を続けている理由は。
■元々、ロシアのプロパガンダに対抗することが目的だった。日本の皆さんに、ロシアではなく、ウクライナを信じてほしかった。そしたら、多くの日本人が募金をしたいと言ってくれた。私は実業家でもあるし、お金に困っていたわけではないので、最初は断っていたが、そのうち、「募金したい」というメッセージが、メールやSNSなどを通じて200件、300件と来るようになった。家族と相談し、「募金を受け取って、そのお金をウクライナの人のために使いましょう」と決めた。
名目は、「私の周辺にいる人たちの支援」とした。通りにいる人とか、私たちと関わっているスタッフとか。そういう人たちにお金を渡して、大きな支援の輪となった。
これは大きな意味がある。日本の銀行からウクライナの銀行にお金が入る。その時点で手数料が銀行に入る。今度はウクライナ政府が外貨を獲得できる。私がお金を引き出すとそこでまた手数料が発生する。極論すれば、例えば、私が、動画サイト「ユーチューブ」向けの作業用カメラを一つ買うと、在庫が現金に替わりカメラを売った2人が1カ月生活できる。こういうお金の流れができたことで、今、毎日200人くらいの命を守っている。そのままなら飢え死にするような人たちに食事を提供できている。
── 戦争の焦点は今後、東部戦線になる。ウクライナの人の士気はどうか。
■日本にサムライ魂があるように、ウクライナには「コサック魂」がある。ウクライナには1200年の歴史の中でいろいろな人種がいるから、考え方や行動は違うが、ものすごく自由が好きだ。良い意味でも悪い意味でも政治に興味がないから、いろいろな人が大統領に当選する。
しかし、その人が自由を奪おうとすると、ウクライナ人は反発して革命を起こす。今回の戦争はウクライナ人を統合させた。ロシアの生活スタイルは我々にとっては、囚人のようなものだ。誰も刑務所に入りたくない。入るんだったら、死ぬ覚悟で戦う、というのがウクライナ人の気持ちだ。
── 停戦の前提は。
■クリミア半島がロシアのままでも、ドネツク、ルガンスクがウクライナのままという状況にまで戻さないと、交渉はできない。
■人物略歴
Bogdan・Parkhomenko
1986年ウクライナのドネプロ生まれ。科学者の母親の仕事の関係で1990年に神戸に移住。その後、大阪で育つ。高校の時にウクライナに帰国、現地の大学と大学院で経済学や情報アナリスト学を学び、キーウにある三菱商事キーウ事務所に勤務。現在は化粧品などの輸入会社を経営。