「あさま山荘」から白日に 疑心暗鬼が生んだリンチ死 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/21〈サンデー毎日〉
1972(昭和47)年 「連合赤軍」事件
人質を取り山荘に籠城した過激派とにらみ合うジュラルミン盾の機動隊――テレビが生中継した大捕物は第一幕に過ぎなかった。劇場型犯罪の舞台裏には仲間同士のリンチによる死体がごろごろと転がっていた。空虚な言葉が人殺しをさせた「連合赤軍」事件である。
「君たちは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめなさい」。拡声器から響く警察の説得。そして現場に駆けつけた母の切々たる訴え。「みんな心配しています。潔く武器を捨てて……」
昭和の刑事ドラマを見ているように思うのは無論、話が逆さまだ。一つの紋切り型を日本人の脳裏に刻んだのが、1972(昭和47)年の「あさま山荘事件」だ。2月19日、長野県軽井沢町の企業保養所に「連合赤軍」メンバー5人が押し入り、管理人の妻を人質に取った。10日間に及ぶ攻防は刻々とテレビで報じられ、同28日、警察がクレーンにつり下げた巨大鉄球で山荘の壁を壊して突入した人質救出作戦の生中継は視聴率90%に迫ったとされる。
本誌『サンデー毎日』も発生直後から経過を詳報。事件解決を受けた3月19日号では人質にされた女性への取材を元に籠城(ろうじょう)戦の内幕を再現した。坂口弘(25)、吉野雅邦(23)、坂東国男(25)らのメンバーはFMラジオをチューニングし、警察無線を傍受していた。強行突入を図る警察官2人を狙撃、死亡させた場面を記事はこう書いている。
〈内田警視長、高見警視正の死がラジオで放送されると、彼らはいった。「あした(2月29日)でなくて、よかったな、あしたじゃ、命日が四年に一回だ」〉
20代の若者が平然と〝敵〟を射殺するさまへの驚きが筆ににじむ。同号の別稿は〈いかなる訓練と指導のもとに〝鋼鉄の戦士〟になったのか〉と半ば感嘆を交えて問いかけた。誰もが見損なっていた。彼らはとっくに人殺しになっていた。
「運転ヘタ」「亭主ヅラ」で〝粛清〟
連合赤軍の母体である共産同赤軍派は69年の「大菩薩峠事件」(軍事訓練中だった活動家の大量検挙)、70年の「よど号ハイジャック事件」による幹部の国外脱出などで弱体化。71年7月、京浜安保共闘と統合し、連合赤軍が発足した。同年末から群馬県の榛名山、迦葉(かしょう)山などに「アジト」を造り、蜂起をもくろんだ。
ところが、山中で行われたのは仲間同士のリンチ殺人だったことが事後に明るみに出た。〈赤軍の兵士たちに共通している弱点がある。彼らのほとんどは赤軍にはいるまでは普通の若者だった。(中略)すべてを武装蜂起にかけたつもりの森ら幹部は、不安になってきた。もしかしたら、敵のスパイさえいるかもしれない……。疑心暗鬼、追及はきびしくなった〉と本誌3月26日号は背景を分析している。森とは最高幹部だった森恒夫(27)。同じく最高幹部の永田洋子(ひろこ)(27)とともに〝粛清〟を指示した。
粛清には理由がほぼ存在しない。本誌同号は「総括」と呼ばれた、アジトでのつるし上げと集団暴行の末、凍死させられたメンバーが〝断罪〟されたわけをこう書いている。〈「連合赤軍」の指導者が指摘する〝革命七つの大罪〟は、あるいは車の運転がヘタだったことであり、あるいは妊娠したために行動に積極性を欠いたことであり、あるいは妻に対して〝亭主ヅラ〟をしたこと、〝異性と関係〟したことだった〉(一部改変)
ふとした人間臭い振る舞いが「革命的でない」と見とがめられ、死に結びついた。あさま山荘事件が起きた2月19日、籠城組と別行動中に逮捕された男性メンバーは「捕まってホッとした。これしか助かる道はない」と漏らした。結局、山岳アジトに集結した29人のうち12人が殺されていた。
「命を大切にしてください。親はただ、子どもの命さえ助かればいいんですから」 山荘に向かい、一人の母親がマイクを握って呼びかけた。立て籠もりを続けるメンバーは無表情のまま、ラジオのボリュームを上げるだけだった、という。
(ライター・堀和世)
※文中で示した連合赤軍メンバーの年齢は「あさま山荘事件」発生当時
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など