小林繁が語った「和解」と日本球界へ残した〝伝言〟 特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/22〈サンデー毎日〉
1978(昭和53)年 プロ野球「空白の一日」
江川と小林――プロ野球史に汚点として残る「空白の一日」を発端に表裏の運命を歩むことになった二人の投手である。巨人と阪神という東西の人気球団が当事者となった騒動は双方のファンやマスコミを巻き込みながら「勧善懲悪劇」としてのボルテージを上げていった。
2010(平成22)年、57歳で急逝した元プロ野球選手の小林繁さんはダンディーな印象で人気だった。現役時代、本誌『サンデー毎日』にこんな記事が載った。〈七一年のドラフトで巨人に六位指名され(中略)無名選手から這(は)い上がってきた苦労人だ。電電公社勤務の父親は、小林がプロ入りする前後、病の床に臥(ふ)し、小林はだれの手も借りず、独力で自分の道を拓(ひら)いてきた〉(1979年2月18日号)
記事は続けて小林を「ギターつまびく歌上手」であるとも紹介し、十八番としてある曲を挙げた。それは「マイ・ウェイ」――。やや筆が走り過ぎの感があるが、読者は素直に納得したのではないか。というのも当時、いわゆる「江川問題」の渦中にあって、潔さを貫く生きざまが称賛の的になっていたからだ。
78(昭和53)年11月、ドラフト会議前日に巨人は江川卓(当時23歳)と電撃契約。前年に江川を1位指名したクラウン(現西武)の交渉権が消滅した「空白の一日」を悪用した手口に批判が殺到した。行司役のコミッショナーは、78年ドラフトで江川との交渉権を得た阪神と契約させた後、阪神は巨人とトレード交渉すべしとの裁定を下した。横紙破りは許された。
小林(当時26歳)がトレード通告を受けたのは79年1月31日、翌日のキャンプインに向けて羽田空港を出発する間際、球団関係者に止められた。機内預けの荷物だけが宮崎に旅立った。小林は2月1日未明、読売新聞社で開かれた記者会見に臨み、「野球が好きだから阪神へ行く」と述べた。経緯を報じた本誌2月18日号はこう書く。〈江川の見苦しさを知る小林は、おそらく同じようなゴネ方を断固避けたいと考えた。ジメジメしたしがみつきよりも、スカッとした思い切りを――それが、恥を知る男、小林の、男の美学であったように思えてならない〉
「面白くないのは組織の問題だ」
巨人びいきも含めたプロ野球ファンは、2人を役者に見立てた〝勧善懲悪〟のドラマで憂さを晴らすしかなくなった。ごり押しを意味する「エガワる」が流行語になり、小林には「さわやか」の枕詞(まくらことば)が当てられた。小林は移籍1年目に22勝を挙げ、特に巨人戦は負けなしの8勝と意地を見せた。一方の江川はプロ初登板の阪神戦(6月2日)で3本塁打を浴びて逆転負け。スタンドからは「正義が勝った」とコールが起きた。
8月19日号でスポーツライターの石川泰司氏(当時、毎日新聞編集委員)がこぼれ話を書いている。〈江川デビューの直前、編集局で江川登板の扱い方について論議したことがある。あのドラフト事件のころ、「江川が勝ってもヒーローにするな」という読者の意見が多数を占め、それを配慮にいれねばならなかった〉
ただし小林にとって世論は必ずしも追い風ではなかった。〈いちばん困ったのは、同情による声援だった。(中略)マイナスの面もあったわけですよ。だから僕の野球人生、短かったのは、そういうことも原因のひとつとしてあった〉と後に語っている(矢崎良一『元・巨人』、99年)。
小林は139勝を挙げ、83年に31歳で引退。4年後、江川は通算135勝、32歳でグラブを置いた。2人は2007年、テレビCMで共演し〝28年目の和解〟と言われた。同時期、小林さんは野球評論家として本誌に登場(07年11月4日号)。〈まあ「ひと区切り」というやつです〉と話題をさらりと受け流した後、球界にこんな苦言を呈している。〈本社や親会社から出向してくる野球を知らない人たちが運営しているでしょう。野球が面白くないのは組織の問題だと思います〉
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など