江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か? 社会学的皇室ウォッチング!/38=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。本稿執筆にあたって、大阪大学特任研究員、佐藤一希さんの新稿「文政~弘化期の朝廷における新清和院の地位―仁孝(にんこう)天皇との関係を中心に」(『史林』105巻2号)を参考にした。
1816(文化13)年2月25日、中宮欣子に男子が生まれた。高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)である。欣子は当時36歳(満年齢に換算、以下同じ)。彼女は20歳のとき、一度男子を産むが2カ月で亡くし、その後出産していなかった。当時の感覚で言えば「高齢出産」。それゆえにこの皇子誕生は驚きをもって迎えられた。
欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。しかし、困ったことがあった。光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。彼は9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。
光格天皇は、閑院宮家出身である。曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。
傍系の宮家出身、それも母方の身分に難があった光格が即位したのは、後桃園天皇の一人娘である欣子と結婚することが担保になっていたためだ。2人の結婚は1794(寛政6)年、光格が22歳、欣子は15歳であった。誤解を恐れずに言えば、光格は「婿養子」として天皇本家に入った。
しかし、欣子は若くして得た男子を亡くした後、子供に恵まれない状態が続いた。そこで側室の子である寛宮を養子として、天皇の後継ぎとした。ところが自分が出産し、いわば正統の天皇家の子供ができたのだ。ただ、すでに立太子が行われたこともあり、寛宮が後継ぎであることに変更はなかった。1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。
現皇室典範の考え方から言えば、当時の天皇の男系長男なのだから、鍠宮が皇位継承者となるのが筋である。しかし、当時はそのようには考えられなかった。仁孝天皇はいわば中継ぎであり、本家正統の高貴宮こそ、次の天皇だと考えられたのである。
1820年代の皇統危機
つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。
皇統が完全に閑院宮系に移ってしまう可能性はなるべく排除し、従来の天皇本家の血統を継ぐ女性として、欣子は重要な存在となった。ところが、高貴宮は1821年に5歳で亡くなってしまう。42歳である欣子の年齢を考えると、天皇本家系で皇統を継ぐことが難しくなった。さらに、鍠宮も同じ年に亡くなってしまう。
加えて、仁孝天皇の正妻(女御(にょうご))であり、鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)も2年後、2回目の懐妊で女児を産む際、生まれた子とともに亡くなってしまう。25歳だった。
天皇家に残されたのは、皇太后欣子(44歳)、欣子とは血がつながらない義理の息子である仁孝天皇(23歳)だけである。仁孝がまだ若いのが希望であったが、皇統は危機にあった。
結局、仁孝天皇は、側室何人かとの間に男子に恵まれそのうちのひとり、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。
ただし、仁孝天皇や孝明天皇には本来、天皇本家の血統ではないことに対するコンプレックスが強かった。
これに対して、孝明天皇の即位の年、67歳まで生きた欣子は、いわば、天皇本家の実質的家長であり、広い影響力をもった。皇位継承や側室の序列など皇室内部のことについて、彼女の意向や考え方が決定に大きく反映されたのである。維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。
愛子さまの正統性
現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。
何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。
今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。
コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など