久米島で住民20人〝処刑〟 スパイ容疑が招いた惨劇 1972(昭和47)年・〝沖縄のソンミ事件〟報道〈サンデー毎日〉
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/24
沖縄が日本に復帰した1972(昭和47)年は本誌『サンデー毎日』の創刊50年と重なる。その記念特集で本誌は終戦の年に起きた日本軍による島民虐殺事件をスクープした。折しも沖縄返還から半世紀。改めて問う―銃は、軍隊は、本当に国民の命を守るのか。
ベトナム戦争中の68年、当時の南ベトナム・ソンミ村で子どもを含む住民約500人が米軍に殺された。北ベトナムに支援され、ゲリラ戦で米軍に対抗していた「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)と通じていると疑われたからだった。
米国の歴史に汚点として残る虐殺事件の名を、本誌は時計を逆回しし、終戦前後の沖縄・久米島で日本軍が島民を〝スパイ容疑〟で次々と殺した罪に重ねた。
〈それから、私たちは敵の米軍より味方の日本軍のほうが恐ろしくなったですよ。こわくて焼け跡から遺骨も拾うこともできない〉
27年前、友軍の手で実弟を殺された男性の訴えを、本誌72年4月2日号は「特ダネ」として報じている。
45年3月、慶良間諸島への米軍上陸から始まった沖縄戦は本土決戦を先延ばしする「捨て石作戦」とされる。6月下旬に本島での組織的戦闘が終わると、米軍は久米島に上陸、島の大半を制圧した。島には当時、通信任務を担っていた約40人の海軍部隊がいた。〝守備隊〟とは名ばかり、島北部の山中に籠もり、もっぱら島民が米軍の味方につくことを恐れ、監視していた。
6月27日、最初の犠牲者が出た。米軍に捕まった郵便局員の男性だった。
〈米兵に山の中の日本軍にあてた降伏勧告状を持って行けと命令されたですよ。断われば殺されるからと思って山に行ったら、日本軍にスパイと決めつけられて、隊長に銃殺されたですよ〉
男性の親類は取材にそう明かした。さらに同29日、民家に集められた9人が隊員に刺殺され、家を焼き払われた。家族の中に米軍の上陸前、偵察兵に連行され、後に帰された人がいたことがあだとなった。
スパイと見なされれば一家全員皆殺し――それが日本軍のやり口だと島民は理解した。先述した郵便局員の妻は親族に累が及ぶのを恐れて家出、入水自殺した。
「もういい」と「やつざき」の落差
惨劇は〝終戦〟となっても続く。8月18日、久米島出身の海軍兵、仲村渠(なかんだかり)明勇さんが殺された。捕虜だった仲村渠さんは米軍の案内役として久米島に戻り、島民に投降を説いて回った。艦砲射撃をやめさせ多くの命を救った恩人とされるが、妻と2歳の乳児とともに殺され、家を焼かれた。同20日には、朝鮮人を主(あるじ)とする一家7人が殺害された。
結局、20人の島民が日本軍に〝処刑〟されていた。本誌は命令を下した「隊長」こと、元兵曹長のK氏を探し出して直撃している。
〈スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。(中略)いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていない〉
K氏はそう語り、殺害の様子を淡々と説明した。
〈処刑は銃剣でやるように(隊員に)命令しました。突くようにね。
――突殺して、放火した?
ええ、火葬にしました。家と一緒にね〉(一部改変)
まさに闇に葬られてきた事実を暴いたスクープは沖縄内外のメディアで大反響を呼んだ。本誌が初報でKと匿名にした元兵曹長はテレビにも出演。実名「鹿山正」を名乗り、「軍人として当然だった」と述べた。
テレビ局には視聴者の電話が殺到した。だが、〈その声は本土と沖縄ではまったく対照的〉だったと本誌72年4月23日号は伝える。本土からの電話の7割は「戦争の犠牲は沖縄だけではない」といった意見だった。
〈「もういいではないか」(本土)に対し「やつざきにしてやりたい」(沖縄)。この落差は何か〉
記事はそう書いている。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など