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昭和の妃選考は高校生から 見通せぬ未来の悠仁さま妃 社会学的皇室ウォッチング!/39=成城大教授・森暢平
『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)が4巻まで刊行された。昭和20年代の宮内庁長官・田島道治(みちじ)が記した大量の記録である。『拝謁記』を読むと、ティーンエージャーだった明仁皇太子(現・上皇さま)の妃選定は、昭和天皇と田島のホットな話題であったことが分かる。これと比べたとき、次々代の天皇、悠仁さまの結婚は、どうなっていくのか、まったく見通せない。
明仁皇太子が高校1年生だった1949(昭和24)年11月8日、昭和天皇は、「東宮(とうぐう)ちゃん」(皇太子のこと)の妃の条件について、「将来の皇后」となるので、どのような家格の女性を選ぶかなど難しい点が多いと述べている。当人同士の円満さ、遺伝的な血縁の遠近、人柄、天皇皇后にとってもよい人であるなどの条件を挙げた。田島長官は「御趣意に従」って検討する旨を答えた(『拝謁記』同日条)。天皇はまた、自分たちが結婚した大正期とは異なり、婚約後は交際期間を設けるべきであるが、交際の結果、相手が嫌いになる可能性もあり、この点も難しいと述べている(『拝謁記』同年11月28日条)。
明仁皇太子が高校2年生となっていた51年2月19日の「田島道治日記」には、「皇太子妃候補名簿ノ件」との記述がある。『拝謁記』(52年1月11日条)にも、学習院名簿による「机上調査」が行われたことが記される。皇太子より2歳年下の学習院女子高等科1年生から、6歳年下の学習院初等科6年生までの適任者をピックアップした。
52年夏ごろ、明仁皇太子が比較的早く結婚したいと意思表明し、そうした意向であれば、年齢が近い女性ということになると、田島は天皇に伝えた。このとき、田島が「特定の方として一寸(ちょっと)考へられる」と挙げたのは、旧宮家である伏見家の章子(あやこ)さんであった(『拝謁記』同年11月4日条)。明仁皇太子と同学年の女性だ。
伏見章子さんは、学習院の同窓会でスクエア・ダンスのため明仁皇太子と手を取り合っている場面が、メディアに掲載された(『週刊サンケイ』同年9月28日号)。スクエア・ダンスとは、4組のカップル8人が、隊形を変化させながら踊る米国生まれのレクリエーションである。田島は取り立てて騒がれるような写真ではないとしながら、天皇が「御覧になりませぬ雑誌」に掲載されたことは気にしている。スキャンダラスな写真ではあるが、いまから見るとどこかほほえましい。時代は希望にあふれていた。
皇太子の「恋愛」を邪推
昭和天皇は、自分たち夫婦が二つ違いであること(香淳皇后は2歳年下であった)に、明仁皇太子が言及した噂(うわさ)を聞き、皇太子には実は、2歳違いの「心に画(えが)いて居る」女性がいるのではないかとも「邪推」している(『拝謁記』1952年11月4日条)。
英国では、第二次世界大戦前(36年)、離婚歴のある米国人の「平民」女性、ウォリス・シンプソンさんとの結婚のため、エドワード8世が王位を退いた(王冠を懸けた恋)。昭和天皇は、「東宮ちゃん」はシンプソン事件のような問題は「決して起こさぬと確信している」と述べる一方、「老婆心」ながら洋行前に婚約相手を決めたほうがいいと考えていた(『拝謁記』51年9月29日条)。明仁皇太子は53年に欧米に長期外遊を行うが、洋行前の婚約との構想は果たせなかった。
昭和20年代は、社会全体としても、結婚に対する考え方が大きく変化する時代である。民主化の流れに沿い、結婚は「家」制度のなかでの押し付けではなく、本人同士の意思による結び付きであることが重要だと考えられるようになった。一方、自由恋愛による結婚は警戒されていた。
昭和天皇も、戦後世代である明仁皇太子たちの新しいセンス(人前で、男女が手をつないでしまうような感覚)には戸惑いを覚えている。しかし、だからと言って、戦前のような周囲の押し付けによる結婚はいけないことだと理解していた。
皇太子妃選定は、55年以降具体化し、正田美智子さん(現・上皇后さま)以前に4人の女性が候補に挙がっては消えていったことが分かっている(拙著『天皇家の恋愛』)。起死回生の候補となった美智子さんも、ギリギリまで固辞の姿勢を見せたが、最後に結婚を承諾した。社会が「平民・美智子さん」の登場を喝采して歓迎したのは、よく知られているとおりである。
未来を描けない令和
これと比較したとき、次代の皇嗣、現在高校1年生の悠仁さまの結婚相手をどうするかは、宮内庁が考えるべき大きな課題かもしれない。しかし、宮内庁が何かをしている気配はない。婚姻は本人の意思による決定であることが自明となり、宮内庁が選考主体でないこともまた自明であるためだ。
70年前に比すれば、結婚年齢も上昇している。10代の明仁皇太子が「結婚は早いほうがいい」と希望した時代とは異なり、悠仁さまは、ご自身の将来の婚姻を具体的に想定していないであろう。さらに、姉の小室眞子さんの結婚が一部週刊誌記事やインターネットの書き込みによるバッシングに晒(さら)された記憶も、悠仁さまにとって気の重い現実となっているかもしれない。
そもそも、結婚という選択と日本の成長を重ね合わせることができた戦後期と、若者たちが結婚に未来を見いだしづらい現代は大きく状況が異なる。令和のいま、悠仁さまの将来の結婚について、宮内庁が何かをすることは不可能だろう。
しかし、「悠仁さまの恋愛」は眞子さんのときと同様に、メディアによる隠し撮りやバッシングに晒されなければならないのだろうか。戦後期の皇太子妃に求められた「平民」性ではなく、同等性や皇室とのバランスが求められれば求められるほど「悠仁さまの恋愛」は遠ざかっていく。また、天皇家をめぐるいまの状況のなか、わざわざ皇室入りする女性が本当に存在するのだろうか。そのことを想像してみるとき、あまり明るい未来は描けない。
宮内庁も、私たちも、未来の悠仁さま妃について希望を持って語ることさえできないのである。それによって、皇室がいずれ存続の危機を招来することは容易に想像できる。私たちは、その危機の予感に、ただ目を背けている。これが皇室と社会をめぐる現実である。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など