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昭和天皇と『サンデー毎日』 三笠宮発言に不満漏らす 社会学的皇室ウォッチング!/40=成城大教授・森暢平

銀座のバーでカクテル競技に参加する三笠宮と百合子妃。昭和天皇は三笠宮の庶民的な振る舞いに不満だった=サンデー毎日1949年10月2日号から
銀座のバーでカクテル競技に参加する三笠宮と百合子妃。昭和天皇は三笠宮の庶民的な振る舞いに不満だった=サンデー毎日1949年10月2日号から

 岩波書店刊行の昭和20年代の宮内庁長官・田島道治(みちじ)の記録『拝謁記』。このなかに昭和天皇が『サンデー毎日』を読んでいた記述がいくつか出てくる。天皇は弟宮がメディアで盛んに発言することに対し、大いに不満を持っていたようだ。

 1949(昭和24)年10月11日、昭和天皇は田島に、「サンデー毎日の私のことに関する記事や田中や藤樫(とがし)の座談会の出てるのを読んだか」と聞いた。『サンデー毎日』10月2日号は、「生物学者としての顔」と題し、宮内庁記者クラブ所属の皇室記者、田中徳(共同通信)、藤樫準二(毎日新聞)らの座談会を掲載した。『拝謁記』の記述から、天皇は、長官が読む前に『サンデー毎日』をチェックしていたことが分かる。

 座談会の囲み記事として掲載されていた三笠宮崇仁(たかひと)へのインタビュー(「自然科学のお話でこちらにタネなし」)に、昭和天皇は不平を言った。三笠宮は先ごろコロナに感染し、入院した百合子妃の夫である(2016年100歳で死去)。

「私(昭和天皇)と話をするかといふ問に対して四方山(よもやま)の話をすると逃げておかれればいゝと思ふに、自然科学に限られるから話がないといふのはどうかと思ふ」

 記事のなかで、三笠宮が以下のように発言したことへの不満であった。

「陛下のお話は殆(ほと)んど自然科学のお話なのです。ところが私はさつぱり自然科学のお話がわからないので、よいお相手も出来ず、実は本当に申訳ないんだがね、実際陛下のことゝなると、あまり種がない。兄弟といつても、普通の兄弟とも違つているし、こういう世の中になつて、陛下と国民が非常に身近かになつたので、かえつて国民の方が陛下について、よく知つていると思います」

 記事を読んでいなかった田島は、「拝見」したうえで答えるとして、その場を引き取った。田島は記事を読み「宮様が変なことを仰せになつたとは思へ」ないと考え、翌日、この話題について少し触れるだけで、事を済まそうとした。ところが、自然科学しか分からない狭い人間だと言われたような気がする天皇は容易に同意しなかった。「人民の方がよく接触してるとかいふ所は何だがいやみのやうに思はれる」と執拗(しつよう)に不満を述べ続けた。

 昭和天皇はなおも納得がいかなかったようだ。10月13日も、三笠宮批判を続ける。自然科学に興味がないにしても、「こういふ本が出たことを喜ぶと一言一寸(ちょっと)あそこへいつてくれたらよささうだと思ふ」と述べたのである。

「こういふ本」とは、昭和天皇が採集したウミウシ類などのスケッチを基に学者たちがまとめた『相模湾産後鰓類(こうさいるい)図譜』のことを指している。直前に出版されたばかりで、この本について触れてもいいのにという恨み節であった。

 天皇はさらに「国民の方が私(三笠宮)等よりは近いとか何とかいふのは一寸いやみの様で、共産党等が兄弟間がうまくいつてないといふ様なことを持込む余地を与へる様なことはまづい」とまで口にした。

 三笠宮はこのとき33歳。宮中の民主派として、メディアで活発に発言していた。一回り以上年長の48歳であった昭和天皇は、世代間ギャップもあり、三笠宮が皇室の守旧性を指摘することに、不信感を持った。

 牛鍋も食べている

 翌1950(昭和25)年3月12日には、『主婦之友』4月号の三笠宮寄稿に不満を述べる。

「どうも御自身の御経験を直ちに今も宮中で其(その)通り行はれてると思つて御話になるのは実に困る。(略)那須で三笠さんと孝(たか)ちやんと一所(ママ)に牛鍋をたべた時に孝ちやんが始(ママ)めてだといった事を以(もっ)てどうも宮廷はこんな事も御存じない(略)といふ様な風によめる」

「孝ちやん」とは、昭和天皇の三女孝宮(たかのみや)(のち鷹司(たかつかさ)和子)のことだ。ちょうど、鷹司平通(としみち)と結婚する直前であった。三笠宮は「孝宮様のこと」と題する小文を寄稿していた。

 48年夏、那須御用邸にいた孝宮が妹たちとともに、近くに滞在中の三笠宮を訪れた。三笠宮はこのとき、姉妹たちに牛鍋を食べさせた。このエピソードを取りあげ、宮中には鍋を一緒にして卓を囲むようなことはなく、大膳課が作ったすき焼を皿に取り分けて出すのがしきたりだと書いている。

 孝宮は狭い皇室の世界に生きているが、民間に嫁ぎいろいろなことを経験することで幸せになってほしいというのが三笠宮の趣旨だった。「一般の主婦と同様の民主的な行動」が望ましいと考え、それとの対比で古い皇室を批判的に述べている。

 天皇は、三笠宮が生まれた大正時代にはたしかに宮中に牛鍋はなかったが、「今ではある」と田島に強調した。鍋で食べないのは「皿にとつてたべる方がおいしいから自然それの方が多いといふだけだ」と反論している。取り分けた方がおいしいという言葉には思わず笑ってしまう。

 コミュ力に難があった天皇

 三笠宮だけでなく、彼の兄にあたる秩父宮、高松宮の悪口も、昭和天皇は頻繁に口にしている。これを聞く田島は閉口することもあった。

 牛鍋/すき焼の話を聞いたとき、田島は「左様(さよう)でございますとも申上げられず」、生返事でやり過ごそうとした。だが、昭和天皇からは「繰返し御話」があった。かなり、しつこく悪口を述べ続けたということだ。

『拝謁記』の『サンデー毎日』の記述は、1952年10月24日条にも出てくる。中秋特別号にあった近衛文麿元首相の秘書官・細川護貞(もりさだ)の寄稿(「高松宮と東條英機」)への不満である。『サンデー毎日』は、昭和天皇の愛読誌であり、各号をチェックし、自分に関する記事を批評したのだ。

 昭和天皇は弟宮たちとうまくコミュニケーションが取れなかった。今の言葉を使えば、「コミュ力」に難があった。普通の兄弟ならば、直接言えばいいことを、宮内庁長官である田島に同じことを述べ、憂さ晴らしをしていたのである。 天皇は孤独であった。対等な立場で話してくれる友人もいない。弟たちには気軽に本心を打ち明けられない。

 だからこそ報道に目を配った。昭和天皇にとって、『サンデー毎日』をはじめとする雑誌は、自分と世界をつなぐ窓のひとつであったのだ。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日7月31日号」表紙
「サンデー毎日7月31日号」表紙

 7月19日発売の「サンデー毎日7月31日号」には、ほかにも「『安倍元首相銃撃』と『日本の危機』」「国民健康保険料が高すぎる! 生存権を脅かす〝取り立ての非道〟」「コロナ禍時代 高齢者『孤独死』の究極防衛」などの記事も掲載しています。

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