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吉田茂国葬の前例を考えるナショナリズム台頭が共通 社会学的皇室ウォッチング!/41=成城大教授・森暢平
銃弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬の前例となるのは、1967(昭和42)年の吉田茂元首相の葬儀である。弔意がどう「強制」されたのかを振り返り、当時と現在の時代の共通点を考えたい。
67年10月20日午前11時50分、神奈川県大磯町の自宅で吉田は亡くなった。89歳。このとき佐藤栄作首相はマニラにいた。国際電話で指示を受けた官房長官は午後4時半の定例会見で、国葬を検討する旨を早くも明らかにしている。
65年1月、英国のチャーチル元首相が、67年4月、西ドイツのアデナウアー元首相が亡くなり、どちらも国葬だった。国家が「偉大な指導者」を追悼する国家的葬儀は、日本の政治家にとって記憶に新しかった。
67年10月31日の吉田国葬における追悼の辞で、佐藤は「アイゼンハウアー米元大統領、故チャーチル英首相、故アデナウアー西独首相はじめ各国首脳と親交を結び(略)わが国の国際的地位の向上をはかられた」と吉田の功績を賛美した。海外のリーダーに伍(ご)する国際的指導者であったことが強調されている。
64年4月、政府は戦後途絶えていた生存者叙勲を復活させ、201人に勲章を贈った。大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)を受けたのは吉田ひとりだ。NETテレビ(現テレビ朝日)はこれに合わせ「吉田茂回顧録」という番組を企画した。
本誌のコラム「サンデー時評」で評論家の大宅壮一は、首相時代の吉田は、ワンマンで民主化を妨げる存在であったと皮肉を込めて書いた。国会議論を軽視し、高圧的姿勢で政局を乗り切っていた吉田が、一転して経済復興の基を築いた人物として称賛されることへの懐疑だった(『サンデー毎日』67年11月12日号)。
大宅は、新しい日本のあり方から見れば吉田には否定されるべきものがあるのに、日本のメディアはそれを報じておらず、「使命を十分に果たしているであろうか」と書いている。現代の安倍「国葬」報道にも通じるメディア批判である。
メディアは「死の当日以来死者にムチうつことをいさぎよしとしない日本人の〝美徳〟を利用しながら、『吉田礼賛』のキャンペーン」をはった(『労働法律旬報』67年11月上旬号)。
日本民間放送連盟は在京編成局長会議で、国葬当日、①番組を自粛して追悼の意を表す②CMをなるべく自粛する③民放共同中継とする――ことを決める。
追悼番組が13時間
『毎日新聞』(10月29日)には、鹿内信隆社長名のフジテレビの広告が7段抜きで掲載された。そこには、午前7時から午後11時の間の特別番組が紹介されている。民放テレビが「吉田追悼」に費やした時間は、フジテレビが13時間1分、短かった日本テレビでも5時間25分であった(『マスコミ市民』67年11月号)。『週刊文春』(67年11月13日号)は、「テレビが一番つまらなかった日」と評した。
メディアの協力ぶりは、10月25日の閣議で「歌舞音曲(かぶおんぎょく)を伴う行事は差し控える」「会社、その他一般でも……哀悼の意を表するよう期待する」と決めたことが影響している。「歌舞音曲」の文言は1876(明治9)年、華頂宮博経(かちょうのみやひろつね)という皇族が亡くなったとき、太政官布告によって停止されて以来の伝統である。
自治体によって異なるが、半日休み(半ドン)になった学校も少なくない。神奈川県の大磯町立大磯小学校(写真左)のように、全国一斉の黙祷(もくとう)時間である午後2時10分に合わせて、子どもたちに弔意を強いる学校もあった。
東京・銀座での反応について、『毎日新聞』(10月31日夕刊)はこう書いている。
「ビルの入口にかかげられた半旗がわずかに吉田さんの国葬の日であることを示すだけ。午後二時十分、銀座にはサイレンも響いてこない。スキヤ橋交番前で警官四人が立ち黙とうをささげた。むらがるカメラマンを見てハイティーンの女性が『あらー、何かしら』とのぞきこんだ。公園にすわっている人たちも立上がらない」
むろん、哀悼の意を示す人もいた。東京都世田谷区三軒茶屋の果物店の店主(54)=当時=は中国から復員し、戦後のみじめさを振り返りながら次のように語っている。
「予想外に早く復興しました。吉田さん一人の功績ではないかも知れないが、混乱した世の中ですぐれた統率力を発揮したということで偉大な政治家だと思っています」
吉田の死の翌年である1968年は、明治維新からちょうど100年に当たる。明治百年記念事業が企画され、近代化の歩みを「正しく」評価しようとする機運が、明治ブームと呼ばれた。
皇室を見ても、当時、権威性を高める施策が次々と打ち出されている。戦災で焼けた宮殿の再建(完成は68年)、天皇外遊検討(実現は71年の訪欧)がその代表である。自信を取り戻した当時の日本には、一方で繁栄を楽しむ人々がおり、他方、ナショナリスティックな気分も高まっていた。
吉田国葬を取り仕切った佐藤が亡くなるのは75年6月である。ノーベル平和賞までとった佐藤は国葬で送られることはなかった。吉田国葬に無理があったことへの反省であろう。このとき、「サンデー時評」で、元毎日新聞論説委員の松岡英夫は「人の死は、本当にその死を悲しみ悼む人々によって葬(とむら)われるべきである」と書いた。(『サンデー毎日』75年6月2日号)。その言葉はいまも通じる。
多様化の時代の国葬
国民が分断するさまは、現代日本にも当てはまるだろう。21世紀、国民の輪郭さえ曖昧になっている。人々のあり方は多様化し、国民という単一のアイデンティティーへの統合は難しくなった。だが、一部の人々は逆にナショナリスティックな気分や「国外からの評価」をもとに国葬も悪くないと言い、「反対する人は国民の認識とはかなりずれている」と主張する。
国葬のある9月27日は火曜日だが、学校や官公庁は休みにしない方針だという。政府は国民に喪に服することを強制しないと説明するが、前例から考えれば、弔意表明の「協力」は求めるはずだ。多様化の時代に、国葬はふさわしくない。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など