週刊エコノミスト Online 日韓関係
支持率低迷の韓国・尹政権が日本に歩み寄ろうとする理由 澤田克己
韓国外務省が、元徴用工の訴訟に関する意見書を大法院(最高裁)に出した。「韓日両国の共通利益となる合理的な解決案を模索し、多角的な外交努力をしている」と訴える内容だという。対日関係の改善に力を入れる尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権が、差し押さえた日本企業の資産の売却を食い止めるため、大法院に判断の先送りを求めたと解釈されている。なぜ、尹政権はそんなことをするのか。それには、どれほどの効果があるのか――。日韓関係と訴訟を取り巻く状況を振り返りながら、考えてみたい。
尹政権の対日関係改善への意欲に日本側も困惑
対日関係の改善へ向けて尹政権が見せる意気込みは、日本側を困惑させるほどだ。日本外務省の幹部は「ここまで政権支持率が下がってきたら、外交も動きづらくなるのが普通だ。日本だったら、『いますぐに動くのは難しい』と弱音を吐くのではないだろうか。ところが、対日関係を改善するという尹政権の姿勢は全くぶれない」と驚きを隠さない。
問題は、韓国に対して強い不信感を持つ自民党保守派を説得するような材料がないことだ。この幹部は「資産売却による現金化の問題を韓国内で処理し、関係改善につなげるという意気込みはありがたい。でも、具体的にこれをするとか、こういう法的根拠があるから大丈夫、というような説明がないので、『期待する』としか言えない」とこぼす。
政権支持率は30%を切っている
尹政権は、人事の失敗や与党内の内紛、強引にも見える政権運営で批判を浴びて、つまずいている。ロシアのウクライナ侵攻に伴う物価高も悩みの種だ。韓国ギャラップ社が7月29日に発表した世論調査では、政権支持率は28%に落ち込み、不支持率は62%に達した。
尹政権の支持率は当初から5割前後しかなかったが、これは保守派と進歩派による政治的分断の激しさを反映したものだろう。前任の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が政権末期まで4割前後という高い支持率を維持したことの裏返しだ。尹政権のある閣僚は「熱烈な進歩派から支持を取り付けるのは何をしても無理」と割り切っていた。
だが現在の支持率低下は深刻だ。李明博(イ・ミョンバク)政権(2008〜2013年)も就任1年目に2割前後の低支持率に苦しめられたが、前例があるからいいというレベルではない。対日政策の中でも歴史認識がらみの問題は世論を刺激しやすいだけに、尹政権の支持率低迷は気になるところである。
“朴槿恵弾劾の悪夢”につながりかねなかった今回の意見書提出
それでも前述の外務省幹部の言う通り、尹政権の対日姿勢にはぶれが見られない。朴振(パク・ジン)外相は7月27日の記者会見でも、「現金化の前に望ましい解決策を模索するため、責任感を持って努力する」と語った。
韓国外務省は7月上旬に原告側弁護士や一部の支援団体、専門家を交えた官民協議会を発足させ、事態の打開策を探っている。ただ政府の動きに反発してボイコットする原告もいて、取りまとめは簡単ではない。
尹政権が次の手として繰り出したのが、今回の意見書提出だった。対外政策に関わる政権幹部は筆者の取材に、「裁判所から提出を求められたわけではない。政権としての判断で提出したものだ」と強調した。
意見書提出は、国益に関連する場合には政府機関が意見書を出せるという大法院の民事訴訟規則に基づく措置だ。法的には問題はない。だがこの幹部は、政治的には「難しい判断だった」と語る。同じ保守派の朴槿恵(パク・クネ)元大統領が弾劾される過程で、大法院とさまざまな裏取引をしていたと猛烈に非難された経緯があるからだ。文前大統領が「司法判断の尊重」を金科玉条のように唱えたことで、ハードルはさらに上がっていた。
韓国の司法専門ジャーナリスト、李範俊(イ・ボムジュン)氏は、尹政権による意見書提出の公表について、「朴政権が裏で大法院に意見し、問題にされたことを反面教師としたのだろう」と話す。
日本への“アピール”で「ビザ免除」復活
李氏はさらに、前政権とは違って問題解決に積極的だと内外にアピールする効果も狙ったと見ている。
特に、官民協議会を作っただけでは進展と認めようとしない日本政府へのアピールを狙った可能性は高い。
前述の政権幹部は「関係を改善しようとする私たちの真剣な努力に、日本側がきちんと応じてくれるといいのだが…」とこぼした。尹政権側は人的交流の活性化によって雰囲気を転換することにも期待をかけており、日本人に対する「ビザ免除」を一方的に復活させた。
朴外相が記者会見などで「日本側の誠意ある対応」に言及するのも、突き放したような態度はやめてほしいという意味が込められているのだという。だが、日本外務省幹部は「現金化の問題さえ片づけてくれれば、残りの懸案は一緒に知恵を絞りましょうかと進められるのだが」と語るばかりだ。
かつての日韓関係では、こうした時には政界のパイプ役が水面下で相手側の本音を探っていた。だが日本の植民地時代に教育を受けた日本語世代の韓国人政治家の人脈に頼っていたため、時代の変化でうまく機能しなくなった。それに代わるパイプの構築は進んでおらず、文政権下では政府間の実務的な交流まで機能しなくなってしまっていた。「まずは信頼関係の再構築から」というのが、日韓関係の現状ということだろう。
下級審では大法院判決に逆らう動きも
最後に韓国司法の興味深い動きに触れておきたい。韓国のソウル中央地裁では昨年、元徴用工が日本企業を相手取って起こした訴訟3件で原告敗訴の判決が出された。うち2件は、消滅時効を理由に訴えを認めないという論理構成を取ることで、日本企業に賠償を命じた2018年の大法院判決と衝突することを避けた。
日本でも、最高裁の判例が直接的な拘束力を持つのは、最高裁が判決を出した訴訟そのものに限られる。だから、夫婦同姓の義務付けを違憲だと認定するよう求めるような訴訟が、手を替え品を替え起こされ、新しい論理構成で判例と違う結論が導き出されることがある。下級審のそうした判断が積み重なっていけば、最高裁が判例を変更することもある。
実際には、韓国での元徴用工の訴訟でそうしたことが起きるとは想像しがたい。原告勝訴が大法院で確定した前後に相次いで起こされた訴訟では、原告勝訴の判決が多く、原告敗訴としたのは一部にとどまる。ただ、ここ最近の地裁の判断を見ると、韓国司法も揺れているのだなと考えることはできそうだ。
前述の李氏は「そもそも徴用工問題は政治や外交、歴史の問題であり、司法で解決しようとしても限界がある。今回の意見書提出は、尹政権のそうした考えを示したものでもあるのではないか」という見方を示した。
澤田克己(さわだ・かつみ)
毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数