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国葬法には無関心だった宏池会の祖「池田勇人」 社会学的皇室ウォッチング!/44=成城大教授・森暢平

旧制中学同窓会で歌手のペギー葉山さんと歌う池田首相(1961年12月10日)
旧制中学同窓会で歌手のペギー葉山さんと歌う池田首相(1961年12月10日)

 自民党岸田派(宏池会)を創設したのは池田勇人(はやと)である(首相在任1960~64年)。広島県出身、低姿勢で国民の声を聞くという点で、池田と岸田文雄首相は似ている。池田は生存者叙勲(栄典授与)では国会を軽視して制度を復活させたが、国葬立法化については何もやらなかった。

 前回取り上げた貞明皇后の葬儀(1951年)の際、法務府法制意見長官であった佐藤達夫は「皇太后大喪について」という見解をまとめた。佐藤は「(政治家など)個々の場合に、事実上これを行うことは別段の法的根拠を要しない」とした。

 なぜなら、国葬は行政作用の一部、国民の権利義務に関係しない事実行為であり、「理論上は内閣の責任において決定し得る」ためである。岸田首相は、内閣府設置法における所掌事務である「国の儀式」としてなら国葬は閣議決定で実施可能との趣旨を述べた(7月14日記者会見)。佐藤達夫見解を踏まえたものだ。

 ところが、佐藤は「実際上は国会の両院において決議が行われ、それを契機として内閣が執行するという経緯をとることが望ましい」と、現実の実施環境を付け加えた。両院の決議をきっかけに内閣が動き出すほうが好ましいとしたのである。

 岸田首相と現在の内閣法制局は、佐藤達夫見解の後段は無視している。

 貞明皇后葬儀後、参議院法制局は、実は全5条からなる「国葬法試案」をまとめた。その第3条には「国にとって特に顕著な功労のあった者が死亡したときは内閣はその葬儀を国葬とすることができる」と明記された。だが、法案は国会に提出されなかった。「顕著な功労」の基準が不明確だったためだと考えられる。

 昭和30年代、国家儀礼整備の焦点は栄典制度復活にあった。正一位から従八位までの位階や、褒章などだが、最大の争点は勲章授与(叙勲)であった。

 敗戦の翌年(1946年)、文化勲章などを除き生存者への叙勲が停止された。政府はその後、栄典法案を3回国会に提出したが、新憲法の精神に反した身分秩序の復活という批判から審議未了・廃案となっていた。

 国葬は、実は死者に対する栄典の授与である。だから、前提となる栄典制度があれば、例えば「大勲位菊花大綬章を受けた者の葬儀を国葬とする」などの基準を作ることができるとも考えられていた。

 栄典制度復活を強行

 吉田茂、鳩山一郎が成し遂げられなかった栄典法について池田は執念を燃やす。1962年8月28日の閣議で、新たな栄典法案作成を指示した。訪欧中の11月5日、西ドイツでの夕食会で、アデナウアー首相が日本の勲一等旭日大綬章を付けているのを見て、栄典法実現の決意を周囲に漏らした(『読売新聞』11月7日)。実は外国要人には生存者叙勲が続けられており、制度はいびつであった。

 その後、与野党協議が続くが、交渉は難航する。このため、国会で決まらないなら、閣議決定で難局を突破してしまおうという意見が自民党内に出てくる。この間、内閣法制局は、栄典授与は事実行為であり、法律を制定せず閣議で復活させても違法とはいえないとの見解をまとめた。池田にとって渡りに船である。

 池田政権は、通常国会が終わった6日後(63年7月12日)、生存者叙勲の復活を電撃的に閣議決定する。国会スルーのウルトラCであった。

 野党、世論は反発した。『読売新聞』(63年9月30日)では「生存者叙勲 是か非か」という紙上討論が企画されたが、寄せられた243通のうち賛成意見は1割にも満たなかった。

「寛容と忍耐」の池田がなぜ正面突破を図ったのか。官僚気質で生真面目な池田が、外交面での必要性を真剣に考えていた面はある。一方、勲章復活を強く主張する党人派に配慮し、政治家が勲章をもらえる環境を整えたという意味もあっただろう。保守派への気配りという点で岸田首相の国葬決断と似ている。

 佐藤栄作は過去を無視

 池田内閣は、元号、国旗、国歌、国名、国葬などの制度を整えるために1961年7月、公式制度連絡調査会議を設置した。国葬については、「将来の問題としてもわが国の政治文化等に偉大な功労のあつた者が死亡した場合」、国葬で遇する可能性があり、法制化の是非が検討されることになった。

 ところが、63年4月2日、同会議は「国葬を行なう基準等は栄典法と同じように相当大きな政治問題となるおそれがあるので早急に立法化することは適当でなく……」という消極方針を打ち出した。栄典については野党と世論の反発を覚悟して実現に走った池田だが、国葬法で動くことはなかった。元号、国旗、国歌も同様である。リベラルの池田は、ここで無理をして国会運営を窮地に追いやることは避けたのだろう。

 その後、池田はがんが発覚し、東京五輪直後に退陣する(64年11月9日)。直後の公式制度連絡調査会議(65年1月8日)で、吉國一郎内閣法制局第一部長は次のように述べた。

「現在、勲章と位階(の議論)があるが、それ以上に国葬を入れると大いに問題となる。国葬の観念がかたまっていないので、むずかしいことになる。単に、国葬をやってやるというのなら政令でやることができるであろう」

 国葬は政令、つまりは閣議決定で「やることができる」が、「むずかしい」というのだ。51年の佐藤達夫見解とも似て、吉國は法的に実施可能だが現実の立法化は困難と判断した。

 その2年後(67年10月)、こうした経緯を無視して、池田後継の佐藤栄作が、吉田茂の国葬を強行した。それは、その後長い間、国葬が実施されないという結果を招来する。国会を関与させるべきだという佐藤達夫見解を無視したためであった。

 吉田国葬からさらに55年後、今度は岸田首相が過去の経緯を無視して、国葬を強行しようとしている。リベラルな宏池会の先輩、池田はこれを何と見るだろうか。

(※国立国会図書館憲政資料室所蔵「佐藤達夫関係文書」、国立公文書館所蔵「公式制度連絡調査会議綴」を参照した)

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日9月4日号」表紙
「サンデー毎日9月4日号」表紙

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