週刊エコノミスト Online サンデー毎日
「玉音放送」を信じず〝分断〟 戦後も続いた「南米の皇国」 1973(昭和48)年・元ブラジル移民の帰国
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/30
コロナ危機が水を差したとはいえ官民挙げて「グローバル化」の掛け声は大きくなる一方だが、かつて国策に従い海を渡った日系移民を苦しめたのは母国が世界に仕掛けた戦争だった。終戦から28年後、故郷の土を踏んだ元ブラジル移民は「天皇陛下万歳」を叫んだ。
前回の8月21・28日号で取り上げた「玉音放送」の進行役、NHKの和田信賢アナは「この放送は一人の人にも洩(も)れなく伝えなくてはならぬ」との決意を胸にマイクに向かったという。
声は短波放送により海外にも届けられた。しかし、必ずしも全ての同胞に「終戦」は伝わらなかった。それはただ雑音のせいだけではなかった。〈玉音放送をきいた一部の日系人は〝敗戦〟を信じた。(中略)だが日本の二十倍も広いブラジルでは、情報はなかなか伝わらない。たとえニュースをきいても〝神州不滅〟をたたき込まれた頭には、デマ放送としか思えない〉
本誌こと『サンデー毎日』1973(昭和48)年12月9日号は、戦前にブラジルへ渡った日本人やその子孫らが母国の敗戦を容易に受け入れられなかった事実を改めて記している。ブラジルの日系人社会では日本の無条件降伏を信じない「勝ち組」が約9割を占めたという。彼らは敗戦を認める「負け組」を敵視し、殺人などテロ行為まで行った。
争いは50年代半ばまで続いたとされるが、その後も敗戦を信じない人々は残った。73年11月、3家族14人の元ブラジル移民が帰国した。〈「天皇陛下バンザーイ」夜の羽田空港で、日本帝国勝利のバンザイ合唱をした〉と本誌同号は伝える。
3家族はいずれも沖縄出身の移民1世とその子、孫だ。最年長の浜比嘉良喜さん(当時81歳)は大正5年に出稼ぎのつもりで渡伯して以来、57年ぶりに母国の土を踏んだ。〈沖縄行きの飛行機が出るまでのわずかの時間を惜しんで、一同は皇居と靖国神社へ。玉砂利を踏んで、二重橋前に直立不動で並んだ一同は深々と最敬礼。浜比嘉夫妻は涙声で言った。「日本は勝った。宮城(きゅうじょう)はこんなにりっぱにある。これがある限り日本が負けてはいない」〉(同号)
「陛下の赤子に恥じない子弟を」
明治41年に始まったブラジル移民は大正12年の関東大震災を機に国策として推進された。日系移民は荒れ地や密林を開墾して入植、ブラジル農業を支えた。その運命を変えたのが日本が始めた戦争だ。1941年の日米開戦により日系移民は〝敵性国人〟とされ、孤立感を深めていった。〈日本から流される短波放送をひそかに聞き、成り行きを見守っていた。天皇直属の最高機関「大本営発表」は、日本軍優勢を報じつづけていた〉(藤崎康夫『ブラジルへ 日本人移民物語』)
戦争は移民同士も分断した。日系農家のハッカ精製工場や養蚕小屋を同じ日系人が焼き打ちする事件が起きた。ハッカは米国に輸出されて爆薬の原料となり、絹糸は米軍のパラシュートに使われる。祖国の裏切り者、という理屈だ。そして45年8月の玉音放送。大本営発表になじんだ耳にはさぞ唐突だったに違いない。
73年2月、横浜港を出た最後の移民船「にっぽん丸」に同乗して現地を訪れたのが前掲書の著者、藤崎氏だ。藤崎氏は帰国前の浜比嘉さんら勝ち組で作る「報国同志会」(47年ごろ、二十数戸で結成)を取材した。
彼らの生活ぶりが本誌同号に載る。家の中には昭和天皇夫妻の〝御真影〟が白布を掛けられて飾られ、忠臣として名高い楠木正成や上海事変の「肉弾三勇士」の写真、教育勅語が壁に掲げられていた。〈「陛下の赤子として恥ずかしくない子弟」を育てようと、独自に先生をやとい学校を建てた。戦前に使われた「サイタサイタ、サクラガサイタ」の一年国語など、十二冊の教科書を苦労して集めて熱心に教えた〉という。
一方で年を追うごとに同志は減り、浜比嘉さんらの望郷の念は募った。それでも現地で頑張ったのは「陛下の帰国命令」を待っていたからだ、と記事は書いている。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など