週刊エコノミスト Online サンデー毎日
新人の造反に議場騒然 100年前の国葬反対論 社会学的皇室ウォッチング!/46=成城大教授・森暢平
南鼎三(ていぞう)と森下亀太郎を知る人は少ないだろう。大阪府選出の戦前の衆議院議員である。両議員の政治人生のハイライトは、元老・山県有朋の国葬に反対したことだ。反対は2人だけだったが、戦前に国葬反対が公然と唱えられていたことは注目されていい。
山県は大正デモクラシーの風潮のなか、軍閥、藩閥という旧勢力温存を目指す保守派の最長老。当時の新聞には否定的に描かれることも多く、大衆に好かれにくい黒幕政治家であった。彼は1922(大正11)年2月1日、83歳で亡くなる。
明治後期から大正期、国葬の運用が確立していたわけではない。国葬令も未整備だった(制定は26年)。元老だから国葬になるわけでもなかった。1900年に黒田清隆、02年に西郷従道(つぐみち)、15年に井上馨が亡くなるが、国葬ではなかった。22年以前、元老の国葬は09年の伊藤博文、16年の大山巌(いわお)だけだ。
実は13年、元老に準じる桂太郎を国葬にする動きがあった。だが、護憲運動に敵対した桂への反感から議会で反対が出る恐れもあった。そのため国葬は見送られる。こうした経緯もあり、高橋是清内閣は慎重になった。挙国一致という体裁を整えなければ、国家の威信と体面に関わる。
山県が亡くなったその日、高橋内閣は、立憲政友会、憲政会、立憲国民党をはじめとする衆議院各会派代表を招集し、国葬への了解を求めた。閣議だけで決めてよいとは考えなかった。
ここで無所属議員から「(国葬には)何か拠(よ)るところの標準があるのか」と法的根拠への疑問が出た。大隈重信が亡くなったばかりで、彼の国葬が議論にならなかったことに不満もくすぶっていた。だが、最終的には全会派一致で国葬が決まる。反発はあるが、政界最長老の元首相の国葬に敢(あ)えて反対に回る会派はなかったのである。
貴族院でも賛同を得た高橋内閣は8万円の追加予算案を議会に提出した。両院の予算委員会でも全会一致の賛成が得られた。全ては順調であった。
現代にも通じる議論
ところが、衆議院本会議(22年2月3日)の予算案審議に反対討論の通告があった。無所属で当選した議員でつくる庚申(こうしん)倶楽部の新人、南と森下だ。
南は大阪府泉北郡大津町(現・泉大津市)を地盤に当選した40歳。名望家の出身で、建設会社経営や府会議員の経歴を持っていた。森下は法曹出身で、大阪市会議員を経て当選した52歳である。2人とも政党に所属せず、都市化する地域の新中間層など新興の有権者に支持されていた。
まず南が登壇する。彼は、山県に対し「満腔(まんこう)の誠意をもって敬弔する」と語り始めた。ところが、国葬への国費支出は「遺憾ながら反対」だと述べる。その理由を南は、昔の道徳では死者に鞭(むち)するべきではないとしてその罪蹟(ざいせき)を荼毘(だび)の煙に葬ったが、世界的な公徳が発達した今、社会を毒する歴史をつくった人物へは死後も批判を向けることが義務であるからだと続けた。そして、1892年の総選挙での大規模な選挙干渉に関与したこと、元老という地位を利用し政変ごとに政党の発展を阻害したことなど、山県の非立憲性を具体的に批判していった。
「国費でその最後を飾るという政府の考えを私は理解できない。それは官僚・軍閥が行うことで国民全体とは関係がない。むしろ官僚葬・軍閥葬にするのが適当だ。東京や他の都市農村では餓死する国民も少なくない。親の葬式さえ出せない貧しい人が増えている。こうした人びとにも国葬に香典を出せと強制するのが予算案の精神である」
ちょうど100年前の議論のなかに、現代と通じる点があるのが興味深い。
議場は、新人の造反に騒然とした。「生意気なことを言うな」「黙れ」「何を言っているのだ」「つまらぬことはよせ」「ノー、ノー」「売名漢」と多数のヤジが飛んだ。議長は途中で「あまり他人の身上にわたって議論することは許しませぬ」と警告した。
森下も登壇した。「山県公を、憲法政治を阻害した政治的罪悪の中枢、憲政の賊だと考える国民もないわけではない。国葬はこれらの国民にも礼拝を強いるものだ」。こちらもなかなかに厳しい。
そして採決である。衆議院の当時の定数は464。南、森下を除く出席者が起立し、議長は「南鼎三君、森下亀太郎君を除くのほか一致賛成でございます」と可決を宣言した。
歌舞音曲も通常どおり
反対はたしかに2人に過ぎない。しかし、全会派の賛成を取り付けたうえでの国葬予算案に、反対演説する議員が出たことが重要である。新聞各紙も、議会政治の新しい動きとして2人を取り上げた。
南、森下は、孤立した跳ね上がりではない。立憲政治を阻害する元老への社会の反発を、同調圧力が働く帝国議会の場で代弁してみせたのである。
2月9日の日比谷公園での国葬を『大阪毎日新聞』(同日夕刊)は記者のルポで伝えた。幄舎(あくしゃ)(葬場の仮の小屋)は思ったよりガランとして余計に寒く感じるとした記者は「帝国議会で協賛した堂々たる国葬日にこの淋(さび)しさ、みすぼらしさはドウした事だ」と皮肉った。約3週間前、同じ場所で行われた大隈の「国民葬」には30万人が参列したとされる。それと比較した時、「民」抜きの「国葬」の国民感情からの乖離(かいり)、非大衆性を批判したのである。
『東京日日新聞』(2月10日)は浅草六区の映画館、芝居小屋は午前中、休演したところが多かったが、正午からは「ブカ〴〵、ドン〴〵」が通常どおりだったと伝えた。これには、取り締まり当局が世論に配慮した面もある。歌舞音曲(かぶおんぎょく)の停止について、警視庁は強制するべきではないと黙認した。禁止は「時勢」が許さないからであった。帝国劇場、市村座、新富座、明治座など大劇場も営業を続けた(『読売新聞』2月9日)。
こうした事実も「国民一人ひとりに弔意を強制するものではない」とする岸田文雄内閣の方針に似ている。似ていない点は、大正期ですら議会の了解を得ようとしていたのに、21世紀にはその努力が事実上放棄されていることだ。民主主義の精神は、どこへ行ってしまったのだろうか。
※前田修輔「大正期における国葬の変容」 『風俗史学』61号、2015年を参照した
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など