週刊エコノミスト Online サンデー毎日
「国威発揚」の気配は抑制的 大儲けの「泣きっ面」に喝采 1938(昭和13)年・東京五輪開催返上
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/35
震災復興をアピールしたはずの祭典がスキャンダルの〝震源地〟になった。昨年の東京五輪・パラリンピックを巡る汚職が発覚、2030年冬季大会の札幌招致にも影が差す。スポーツは誰のものか――戦中の日本が返上を余儀なくされた「幻の東京五輪」を眺める。
日本レストルーム工業会によると、日本で水洗式の便器が作られたのは1900年代初頭だ。だが戦前までのトイレ事情は満足には程遠かったようだ。
〈汽車やデパートの不浄場の臭気の問題を解決しておきたいものです。日本では便所はくさいものと相場がきまっていますから、水浄装置でも依然として臭気紛々で、これだけはあんまり威張れた話ではありません〉
本誌『サンデー毎日』1937(昭和12)年1月3・10日合併号で社会運動家の石本静枝(戦後、初の女性国会議員になった加藤シヅエ)が指摘している。前年7月のIOC総会で東京が40年大会の開催地に決定した。本誌は続く同17日号と併せて「東京オリンピックを待望して」と題し、各界の声を拾った。石本に限らず、アジア初の五輪招致を誇るよりむしろ、外国人選手や来日客をどう扱うかおっかなびっくりの印象だ。
小説家の福永恭助が〈日本語をローマ字で書くことをムチャクチャにはやらせるのがよい〉と唱えたかと思えば、国家社会主義者の赤松克麿(かつまろ)は〈卑屈なる外人崇拝主義に陥ることなく、国民的矜持(きょうじ)を失わざる範囲内において最大限の親切を尽くすべき〉だとくぎを刺す。女性の服装がだらしないとして「アッパッパー廃止」論もあり、第二の文明開化かといった趣だが、ジャーナリストの阿部真之助(40年に『東京日日新聞』主筆)は〈外人が来るから街を飾る、来ないなら不潔のままで何年たっても放って置く、といった心持は、悪魔に食われてしまえ〉と得意の毒舌を振るっている。
関東大震災(23年)からの復興の証しとして構想された東京五輪招致は、40年の「皇紀二千六百年」記念事業でもあった。36年に2・26事件が起き、軍国主義が強まっていた頃だ。ただ、同年のベルリン五輪がナチスの宣伝装置になったことを考えると、思いのほか国威発揚の気配は誌面から漂ってこない。京大の松井元興(もとおき)総長は〈オリンピックを利用して日本を紹介しようとか広告しようとかいうようなさもしき心を起さぬこと〉とたしなめ、評論家の青野季吉(すえきち)は「スポーツの世界性」の自覚を強調した。〈スポーツにまで、狭隘(きょうあい)な民族的、国家的な枠を持出されては堪(た)まりません〉と五輪の政治利用を戒めている視点は今でも新鮮だ。
戦中も漂っていた「カネの臭い」
一方、開催準備は遅れに遅れた。肝心のスタジアムの場所が全く決まらなかったのだ。東京市は湾岸開発の意図もあって月島埋め立て地を候補としたが、強風が懸念され断念。現在のJOCの役割を兼ねていた大日本体育協会が明治神宮周辺を推すなど曲折を経て、38年4月に駒沢ゴルフ場跡地(今の駒沢オリンピック公園)に決定した。
その間、37年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件から日中は全面戦争に突入していた。競技場建設に使う鉄材確保が難しい事情に加え、「挙国一致」を唱え、戦時に民心が浮かれることを嫌った軍部の意向もあり、五輪開催は不可能になった。〈事変でも多少片づけば(中略)積極的に世界のお祭りを日本で主催しようという気持に変るだろうと思う〉と体協の末弘厳太郎(いずたろう)理事長が本誌38年7月3日号の座談会で語っているが、本心かどうか。
政府は同15日、東京五輪返上を閣議決定した。7月31日号のコラム「週間時評」で前出の阿部はこう書いている。〈競技場付近の土地を買い占めて、大儲(もう)けを企てた、市会議員とか東京市に関係を持つものが少なくなかったと伝えられるが、(中略)私は彼等の泣っ面に喝采を送る。何故(なぜ)ならばオリンピック中止によって、影響をおよぼした方面が多い中に、これほど愉快な傑作はないからである〉 カネの臭い、という話である。
(ライター・堀和世)
※記事の引用は現代仮名遣い・新字体で表記
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など