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平野貞夫元議員が見た国葬 「繰り返された憲法軽視」 社会学的皇室ウォッチング!/50=成城大教授・森暢平
安倍晋三元首相の国葬は終わった。注目されたのは、吉田茂元首相の国葬の舞台裏を知る元参議院議員・平野貞夫さん(86)の証言だ。平野さんは衆議院副議長の秘書として、当時の自民党と社会党のやり取りを見てきた。「当時も今回も国民主権の原理が軽視された」と考えている。
長く衆議院事務局に勤め、議会政治を官僚として支えてきた平野さんは1992年、参議院高知県選挙区で初当選。新生党、新進党、自由党の結党で小沢一郎氏と政治行動を共にし、03年に民主党に合流したが、その後政界を引退し、執筆・講演活動に従事している。
今回の国葬で平野さんにも案内が来た。しかし返信しなかったし、テレビの生中継も見ていない。安倍元首相のような世襲議員が政界でのし上がる政治文化に疑問を持つし、旧統一教会との関係にも疑義がある。
平野さんは国葬実施後の世論調査に注目した。共同通信社が10月8、9日に実施した調査によると、国葬を「評価しない」「どちらかといえば評価しない」が計61・9%で、「評価する」「どちらかといえば評価する」が計36・9%。依然として国葬反対が多かった。
国民主権を原則とする日本国憲法は、特定の政治家を国葬にすることを前提としないと平野さんは考える。この点、平野さんは立憲民主党の姿勢が揺れていたのが気になった。判断に迷った印象があると平野さんは見る。その半面、世論がはっきりと反対の意思を示し続けていることは平野さんにとって心強い。
自社談合が生んだ前例
そんな平野さんが31歳の衆議院議員事務局時代に経験したのが、吉田国葬だった。平野さんは園田直(すなお)副議長の秘書を務め、自民党と社会党とのやり取りを直接目撃した。
吉田が亡くなって数時間経(た)った1967(昭和42)年10月20日午後3時前後。園田の院内副議長室に、マニラにいた佐藤栄作首相から電話があった。平野さんが取り次いで、園田に代わった。園田と話す首相の興奮気味の声が電話口から漏れてきた。「どうしても国葬にしたい。法的根拠がないのは分かっている。しかし、野党の了解を取れば超法規的措置で実施できる。今夜中に社会党を説得しろ」。園田は首相からそう指示されていた。
園田が命を受けたのは、社会党を説得できる人物だからだ。園田は副議長就任(65年12月)以前、自民党の国会対策委員として活躍した国対族である。委員長時代には、公務員団結権が議論となったILO(国際労働機関)問題、日韓基本条約批准が問題となった日韓国会で、社会党との交渉にあたった。ときに裏交渉や寝技を使い、辣腕(らつわん)で国会運営に当たってきた。
国対委員長としての園田のカウンターパートが社会党の山本幸一であった。駆け引きの妙では党内で右に出る者はおらず、「国対の山幸」と呼ばれた。園田と山本は阿吽(あうん)の呼吸で、妥協し合う場面もしばしばあった。
首相から電話を受けた園田は、千代田区一番町にあった副議長公邸に密(ひそ)かに山本を呼んだ。山本はこのとき、社会党書記長の地位にいた。公邸はそれ以前にも園田・山本の密談に使われていた。
会談に同席した平野さんによると「吉田元首相を国葬で送りたい」という園田からの申し出に、山本はまったく反対しなかった。それどころか「園田さんには大事なことで世話になっている」と、社会党内をまとめる話までしていた。
園田は同じ日、山本に代わって社会党国対委員長となっていた柳田秀一(ひでかず)の議員会館の部屋も訪れた。柳田もまた国対族のひとり。彼もまた異議を唱えなかった。ここにも平野さんは同席した。
山本、柳田が反対しなかったのはなぜか。今となっては真相は藪(やぶ)の中だ。だが吉田国葬の少し前、社会党のある議員が亡くなったときの事情が影響した可能性を平野さんは想像する。その社会党議員は議員宿舎に住んでいたが、その死で家族は宿舎を出なければならなくなり、生活面で困っていた。
園田は、柳田から「国会からの弔慰金(450万円)の範囲で、住宅の世話をしてほしい」と依頼された。園田に代わり、社会党のために動いたのは平野さんだ。ちょうど、東京都練馬区の石神井公園団地が売りに出ていた。平野さんは、日本住宅公団(現・UR都市機構)と交渉し、この議員家族のための住宅確保に成功した。「山本、柳田には、自民党に貸しがあったのだろう」と平野さんは想像をめぐらす。
園田と山本、柳田会談の翌日、新聞には「社会党は国葬に異議はない」とする記事が載った。自民党筋のリークである。社会党内ではのちに国対族主導の国葬容認に異論が出るが、流れは決まっていた。国葬の前例は、自社談合のなかで生まれたのだ。国民主権の憲法が軽視されたと平野さんは振り返る。
政治のカルト化現象
平野さんは、安倍元首相の悲劇によって「政治のカルト化」現象が可視化されたと見る。古代から政治と宗教は関係が深い。論理性がない非理性によって冷静さを失い自らの欲望を追求してしまう政治の傾向を、平野さんは「政治のカルト化」と呼ぶ。政界で権力を握る者は、常にその危険を自戒する必要がある。
1874(明治7)年、政府を追われた土佐出身の板垣退助、後藤象二郎らが中心となり民撰議院設立建白書が出された。
「現在の権力は天皇でも人民でもなく、ただ官僚だけに帰属している。政治は情実で動き、賞罰は個人的な感情で決定される。この状況を解決する方法は、官僚権限を制限し、議論する場である国会をつくることだ」
建白書にはこうした趣旨が書かれた。「有司専制」、すなわち一部の政治家だけが政策を決めることへの批判である。建白書の精神は明治憲法のなかで生かされ、今も日本国憲法の主権在民原則に引き継がれている。
高知出身で自由民権の精神こそ現代政治に生かされるべきだと考える平野さん。「国葬はそのときどきの政府が総合的に判断する」という岸田文雄首相の言葉は憲法軽視の姿勢がよく表れていると平野さんは見る。厳しく言えば、カルト化した政治による「有司専制」そのものに見えると平野さんは指摘した。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など