週刊エコノミスト Online サンデー毎日
「パンダ争奪戦」に興奮と「天安門」の惨劇の〝落差〟 1972(昭和47)年・日中国交正常化
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/37
1972(昭和47)年に当時の田中角栄首相が訪中し、国交正常化がなされてから半世紀。今や世界の覇権を担う一極となりつつある隣国との関係を考える機会も多い節目の年だが、その〝中国観〟に不可逆の影響を与えたのが89(平成元)年の「天安門事件」である。
「パンダは、ひとまず、上野動物園に迎える」
72年10月4日、二階堂進官房長官が下した〝裁定〟を本誌こと『サンデー毎日』同22日号が伝えている。
前月29日、田中首相と中国の周恩来首相が「日中共同声明」に調印した。国交回復の証しとして、中国からジャイアントパンダ一つがいが贈られると決まった途端、全国の動物園による争奪戦が起きた。本誌同号によると、仙台市の八木山動物公園が生息地の気候に似ると言い、京都市動物園は好物のササが取れる山が近くにあると主張。大阪市の天王寺動物園はパンダハウスの敷地を用意したとして引かない。とても収まりがつかず、10月下旬にやってきたカンカン、ランランの2頭は「仮の宿」として東京の上野動物園を住まいとしたいきさつがある。
パンダ争奪戦が表すように、にわかに日本中が「中国ブーム」に沸いた。49年の中華人民共和国成立後も日本は台湾の国民党政権を正統と見なし、米国の「核の傘」の下で共産党政権を敵視する姿勢だった。66年に始まった文化大革命によって中国は混乱、世界からも孤立したが、72年2月にニクソン米大統領が電撃訪中。米中接近という急展開を受け、同年7月に誕生した田中政権は中国との国交正常化を急いだのだ。
〈それにしてもこの中国ブーム。僕みたいに北京と国交正常化をやったほうがいいといってきた者にとっても意外です。日本の財界、広く経済界のヘンシンぶりはすごい〉と歴史学者の萩原延寿氏が本誌10月15日号の対談記事で述べている。
一方、日中首脳会談を取材した『毎日新聞』の辻康吾特派員は、37年の日中戦争勃発の地である北京市郊外の盧溝橋を訪れ、こう思いをはせた。〈連合国の一つとして中国は〝勝利〟を得たが、その勝利は敗者の日本よりもずっと悲惨なものだった。喜ぶべき勝利を〝惨勝〟としか呼べない状態にしたのは、やはり、われわれの一世代前の日本人ではなかったか〉(本誌同号)
震える指が描き出した渾身ルポ
その辻記者が、首脳会談最終日の心境を細かくつづっている。〈記者団は朝から興奮していた。(中略)全員が出発前から日中友好ムードにあふれ(本当の胸のうちはともかく)、会談の成功をひたすら祈っていた。その日がきたわけだ〉
取材対象との距離感が今とは明らかに違う。戦争が「一世代前」にあった人たちの率直な口ぶりだろう。
78年に平和友好条約が結ばれ、進展してきた日中関係を激震させたのが、89年6月に起きた「天安門事件」だ。民主化を求める学生ら市民が武力で弾圧された。
〈兵士の一部が、こちらに近づいて来た。ヘルメットをかぶり、右手に銃を持っている。(中略)表情がわかる距離になった。まだ若い兵士の顔が、異様にこわばっているのがわかる。「まずい」。一目散に逃げた〉
本誌6月25日号に寄稿した『毎日』の上村幸治特派員は、惨劇を見たというよりも「殺されていく市民の群れの中にいた」と書く。
〈銃声の中を走り回っている時は、怖さなんか感じなかったのに、時間がたつと恐怖心が全身を縛りつけるように襲ってくる。その後、いつからか、銃を持つ兵士を見ると、恥ずかしいが、足がすくむようになった〉
震えが止まらない指で握ったというペンによって記された「真実」は、33年を経ても中国本土で報じることが許されていない。事件で大きく傷ついた中国観は後の天皇訪中や、あるいは歴史問題などで浮き沈みを繰り返してきた。〈この巨大な国は、これからどうなるのだろうか〉という一文で上村記者は記事を締めている。その問いを手探りする感触は今なおリアルだ。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など