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皇太子妃選定の隠密作戦 メディアと宮内庁の葛藤 社会学的皇室ウォッチング!/77 成城大教授・森暢平
5月30日に発売された『昭和天皇拝謁記』第7巻(岩波書店)に興味深い記述があった。前宮内庁長官(当時)田島道治の日記1958(昭和33)年8月29日条。「産経藤村記者来訪、濱口令嬢にお([匂])はす」。『産経新聞』の藤村邦苗(くになえ)記者が取材に来たので、皇太子妃候補として「濱口令嬢」を匂わせる話をしたとの意味である。その4日前、宮内庁は正田美智子さん(現在の上皇后さま)に正式に縁談を申し入れている。しかし、前宮内庁長官は全く別の女性をほのめかしたのだ。
田島前長官が示唆した「濱口令嬢」とは、戦前の濱口雄幸(おさち)首相の孫娘のことである。当時、「お妃候補」選定にかかわる者たちは、美智子さんが候補であることをメディアに嗅ぎ付けてほしくなかった。だからわざと、本命ではない女性の名を挙げ、記者の目をくらまそうとした。「当て馬」にされた女性はいい迷惑であろう。だが、メディアに知られてはうまくいく話もつぶれかねない。陽動作戦でメディアを混乱させたのであった。
平成の皇太子(現在の天皇陛下)と小和田雅子さん(現在の皇后さま)の時はどうだっただろうか。一度消えたお二人の話は1992(平成4)年5月上旬に再浮上する。5年ぶりの再会は同年8月16日(日曜日)。朝の段階で東宮仮御所の職員には「午後はテニス。外出など特別の予定はない」との日程が示された。しかし昼食後、皇太子は後部座席がカーテンで覆われた職員の車に乗り、ひっそりと赤坂御用地を出た。ほどんどの職員たちには知らせないまま、雅子さんの父・小和田恆(ひさし)氏の外務省の先輩柳谷謙介氏の自宅に向かった。そこで雅子さんが待っていたのである。
赤坂御用地の門を出るとき、後部座席に皇太子が乗っていることは隠された。門では皇宮警察がすべての人の出入りをチェックしている。皇太子外出が記録されるといずれメディアに漏れ、皇太子が誰に会ったのかが詮索される。宮内庁は、「お妃選び」でたびたび痛い目に遭ってきた。この5年前、雅子さんが最初に「お妃候補」として検討された時は女性誌にスッパ抜かれた。だからこそスパイ映画のような隠密作戦が必要であった。
2回目の密会は92年10月3日のいわゆる「鴨場のデート」。皇太子は東宮仮御所を出る際、今度は軽ワゴン車の後部座席に座り、門の出入りでは身を隠した。前回同様の隠密作戦である。
3回目は11月28日。雅子さんはこの年初めて東宮仮御所を訪問する。途中、タクシーを何回か乗り換えたのち、宮内庁の車に乗り換えた。報道機関の尾行がないかを確かめるためであった。これら隠密作戦を指揮していたのは、山下和夫東宮侍従長(当時)であろう。
スクープ撮に協力?
宮内庁は91年6月21日、報道機関に対し「静かな環境を与えてほしい」と「お妃報道」の自粛を要請。日本新聞協会は92年2月13日、①皇太子妃の候補者と候補者選考の経緯が推察されるような報道を自粛する②候補者の人権、プライバシーに十分配慮し、節度ある取材を行う―の2点を申し合わせた。解除されるまで報道はできない。しかし、節度さえ守れば取材はできる。当日紙面で他紙が知らない情報をどれだけ掲載できるかが勝負となり、水面下の競争となった。
92年秋の段階で、小和田雅子さんが皇太子妃候補に再浮上したことをつかんだ報道機関はなかった。ほとんどの社は、雅子さんは「過去の候補」だと考えていた。しかし、宮内庁が雅子さんの線で動いているという情報をつかんだ社が出た。『読売新聞』である。その時期について、読売自身、「10月」と書いている(93年1月7日朝刊紙面)。私はもう少し後だと考えている。
『読売新聞』が雅子さんの近影を撮影したのは92年12月12日、新宿三越の画廊においてだ。雅子さんは両親と一緒に知り合いの書家、小川東洲さんの個展を見学した。外務次官だった小和田恆氏と雅子さんは、カメラ取材に驚くわけでもなく、むしろ積極的に被写体となっている。小和田親子は、読売の「スクープ撮」に「協力」しているようにさえ見える。読売が結婚情報をつかんでいることに観念し、隠し撮りをされるよりはむしろ撮影させたほうがよいと判断したのだろうか。
外国メディアの先行
12月15日の宮内庁最高幹部会議で「雅子妃」は決定。皇太子と雅子さんは12月25日、天皇ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)に挨拶(あいさつ)した。この段階で、『朝日新聞』とNHKも気づいたと考えられる。小和田邸周辺に報道陣が現れ始めたのは12月27日ごろ(『毎日新聞』93年1月12日)。年明けの1月4日の雅子さんの初出勤を撮影しようと試みた社は、読売、朝日、NHKの3社であった。
93年1月5日のことだと思われるが、宮内庁幹部は、宮内記者会加盟社に「1月12日に皇室会議の1月19日開催が発表される」と耳打ちし始める。報道自粛に協力してくれたマスメディアに仁義を切った形である。
共同通信社はこの日、地方紙など加盟各社に対し12日の発表を口頭で連絡。その際、雅子さんの実名も伝えた。ここまで行くと情報が雑誌や外国メディアに漏れるのは時間の問題となる。
1月6日、朝は数人であった小和田邸前の報道陣が18時半には50人以上に膨れ上がっていた。米紙『ワシントン・ポスト』東京支局が14時半ごろ、「皇太子妃決定」として雅子さんの実名を記した記事を米国本社に送信した。それが噂(うわさ)として、他のメディアに拡散していたのである。昭和の皇太子妃報道のときは米誌『ニューズウィーク』に先行された。今回もまた外国メディアにしてやられた。日本新聞協会は20時、「皇太子妃報道に関する小委員会」を緊急招集。20時45分の申し合わせ解除を決める。時間になると、NHK、民放は一斉に「皇太子妃決定」の速報を流し始めた。
翌日の各社紙面を見ると、『読売新聞』だけが、宮内庁でもごく少人数しか知らないはずの「鴨場のデート」について詳細が書かれていた。報道競争は読売の圧勝に終わったのである。
むろん、最大の勝利者は、恋を成就させた皇太子自身であった。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など