新規会員は2カ月無料!「年末とくとくキャンペーン」実施中です!

週刊エコノミスト Online サンデー毎日

凄絶な生い立ちと薬物依存 向き合い開いた「新たな道」――俳優・高知東生 ジャーナリスト・森健

やわらかく晴れやかな表情の高知さん
やわらかく晴れやかな表情の高知さん

 セカンドステージ―「自由」を生きる―7

 功成り名を遂げた人物が、新たなステージに挑む姿を追う好評シリーズ。今回の主人公が築いたのは「悪名」かもしれない。だが、これを招くきっかけとなった依存症、さらには凄絶な生い立ちとも、もがきながらも向き合うことで手にした「自由」の形は―。

 横浜・港の見える丘公園に近い一室。この場所で高知(たかち)東生(のぼる)さんに会うのは二度目だった。

 二〇一九年四月に会ったときは表情に硬さが残っていた。だが今年五月の高知さんは抜けたような爽やかさがあり、満面の笑みにくりっとした目で現れた。

 最近、肩書に作家も加えられた。自身の体験をもとに書かれた『土竜』という短編集は山本一力や重松清など作家からの評価も高い。そんな仕事について尋ねると、最近は幅広くて……と照れながら言う。

「第一はもちろん俳優で、最近映画の撮影も進んでいます。歌も歌っていて、この間は鳥羽一郎さんたちとコンサートも回りました。ただ最近は講演やセミナーが結構あるんです。これは昔はなかったことでね」

 それはもちろんあの事件があったからです、と笑いながら言う。

「失敗した自分を必要としてくれる人がいる。それは執行猶予期間も終わり、事件後のプロセスを見てくれている人たちがいるってこと。それは自分にとってもすごくうれしいし、おもしろいなと思うんです」

 一六年六月、横浜市内のホテルで覚醒剤などの所持でクラブホステスとともに逮捕された。同年九月、懲役二年執行猶予四年の判決を受け、厳しい批判が寄せられた。

 だが、その後次第に社会の理解が変化した。国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦医師らによる啓発活動で、薬物依存症は治療すべき病気である、という理解が広がりだした。高知さんはその松本医師に主治医となってもらい、薬物依存を回復していった。

 一九年九月に「依存症予防教育アドバイザー」の資格を取得。同じ悩みを抱える人たちに向けた啓発活動を行うようになっていった。そんな依存からの回復過程で、自分の人生について明かした本『生き直す』を二〇年に出版。すると、改めて注目を浴びることになった。

 同書には高知さんが高知で有名な侠客(きょうかく)の男の愛人の子として生まれ、その母も十七歳のときに自殺したことなど、壮絶な経験が綴(つづ)られていたからだ。一九年の取材時、そのことは明かされていなかった。

「当時はそういう話をしていいのかという迷いもありました。ただ、依存症の回復プログラムをしていく過程で、自分の人生に正面から向き合うことを求められた。それは自分が隠してきた歩みを晒(さら)すことでもあったのです」

 それは心の生傷を剥き返すつらい行程だった。

 生命保険失効2日前の「母の死」

 高知さんは一九六四年、高知市に生まれた。幼い頃はずっと伯父一家の敷地で祖母と暮らしていた。自分は「川で段ボールに乗って流されていた」という話を聞いて育った。小二の頃、祖母から「大事なおばちゃんが来るから」と言われて現れた女性がいた。黒塗りの大きな車で送られてきた着物の女性。異様な空気があったが、それが実の母だった。小五の頃、その母と暮らすことになった。

 それはうれしさもあったが、戸惑いのほうが勝っていたという。

「心がついていかないの。大人の世界のAからBへ移らされた感覚でした」

 実際の生活も思い描いていたものとは違っていた。母は家を空けることもままあり、数日帰らないこともあった。また、ある日紹介された「お父さん」は侠客の世界では広く知られる人物だった。意味も知らずに父の金バッジを学校に持っていき、教師たちを慌てさせたこともあった。

 抗争で襲われたこともあった。母と若い衆と事務所にいるとき、二㌧トラックが事務所に突っ込み、そこから組員が出てきて襲いかかってきた。高知さんは母から「上にあがりや!」と言われて逃げると、下では母が刀で袈裟(けさ)がけに切られたところだった。

「ふつうの家族を体験したことがなかった当時の僕は友だちに言えないことばかりでね。だから……いつもいい子にしていました」

 そんな二年を経て、高知さんは私立の中高一貫校に進んだ。全寮制で家から離れるのが目的だった。

 中高時代は野球に明け暮れ、高三の夏の県大会も終了。すると、自身の人生を揺るがす出来事があった。

 珍しく三日間、実家へ帰ると、母は思いがけないことをしてくれた。手料理で肉じゃがをふるまい、一緒に歌を歌おうと言ってきたのだ。無理やり歌わせられ、二人で爆笑した。その翌日は二人でデパートに買い物にも出た。それは初めての親子らしい体験だった。

 数日後母は亡くなった。トンネル入り口への激突。自殺のようだった。間もなくその理由がわかった。

「母が亡くなったのは生命保険の失効日の二日前だったんです」

 失意のなか祖母と葬儀をし、市役所に出向いた。すると、さらに衝撃の事実が高知さんを待っていた。戸籍謄本を出してみると、父の欄には知らない名前が書いてあったからだ。それはこれまで「父」と聞いていた大物侠客ではなく、徳島に住むやはり侠客の名前だった。高知さんは二重三重にも衝撃を受けた。

 高校卒業後、高知市内のデパートに勤務。だが、荒れる生活に入っていった。グレた仲間と仲良くなり、喧嘩(けんか)を繰り返した。

「ぶっ壊れたんだね。母のことも父のことも衝撃が大きすぎた。一方で周りは僕が任侠の道に入るのかという視線もあったし。僕は僕で本当は〝親父(おやじ)〟の息子じゃないのがいつかバレるという怖さもあった」

 そこで東京へ出ることにした。目的は成り上がること。矢沢永吉の著書に影響を受け、故郷を離れたのは二十歳のときだった。

 上京すると、昼は原宿にあったテント村、夜はホストクラブで働き、「成り上がる」ことを目指した。

「昼も夜も働いたのは東京はカネがかかるからです。大学などを目指すわけでもない。だから働こうと」

 新しい友だちもでき、流行(はや)りのディスコにも通いだした。そこで出くわしたのが薬物だった。常連となり特別席にいると回ってきた。ダサい奴(やつ)と思われるのが嫌でやってみた。だが、たいした快感はなかった。

「『拍子抜けの体験』というらしく、たいしたものじゃないと思った。だから、十数年後にまたやってしまったのだと思います」

 その後、アパレルメーカーに就職。薬物とは縁が切れた。ただ、その後の人生はバブル時代とともに変わっていった。

俳優デビュー時のブロマイド写真
俳優デビュー時のブロマイド写真

 麻薬取締官からの提案が転機に

 最初のきっかけはAV女優のプロダクションの設立だ。当時ビデオデッキが急速に広がるなか、AVの需要が急増していた。そこに目をつけた友人からの誘いで、AV女優の芸能プロダクションを立ち上げた。ビジネスは大成功した。

「当時はいわゆる本番行為はない時代。女優になる女の子の親御さんに挨拶(あいさつ)に行くこともありました。そんなふうに大事にスターにしていったのです」

 実際そんな中で知り合ったAV女優と高知さんは最初の結婚をした。当時の高知さんは成功のさなかにいた。外車は数台保有。一晩で七百万円使ったこともある。

 だが、バブルが弾けた頃から環境が変わりだした。

 事業は社員に多額の横領をされ、自身も投資話に騙(だま)されるなどトラブルが続いた。事業は引退した。そんなとき、友人で俳優の嶋大輔氏に誘われてスポーツクラブに行くと、思わぬ転機が訪れた。大手芸能プロの代表から俳優としてスカウトされたのだ。高知さんは驚いたが、引き受けた。

「深く考えていなかったんです。『やります』と返事した二週間後にはロケで中国に行かされていました」

 もともと芸能界に憧れがあるわけではなかった。それでも、次第に自分が活動することに面白さも覚えていった。そんな中、自身の浮気が原因で最初の妻とも別れた。

 そして俳優としての仕事が広がっていくなかで出会ったのが、ある大物女優だった。役者同士で集まる飲み会で会ったところ、深くわかりあえる感覚を感じた。間もなく交際に発展、一年ほどで結婚に至った。

 本人として不本意な報道も少なくなかった。妻は映画の主演女優だが、夫はバイプレーヤー。「格差婚」という揶揄(やゆ)がたびたび報じられたからだ。それでも幸せな時期ではあった。

 だが躓(つまず)きは思わぬところに潜んでいた。加圧トレーニングや美容エステをサイドビジネスとして始めた。そこに失敗の種があった。

「芸能の仕事は人気商売で不安定です。そんなとき、自分もやっていた加圧トレーニングをやってみるといいんじゃないかと思った。妻も反対しない。そこで自分の資金で始めたのです」

 二〇〇六年、最初の店舗は東京・目黒で開業。事業は当初はうまく進んだ。その後、美容エステなどにも進出した。だが、そんなときに気の緩みが出た。あるパーティーでレースクイーンの女性と話をしていると、お互い過去に薬物体験があることがわかった。そこで「久々に弾(はじ)けるか!」と盛り上がり、薬物を再び使いだしてしまったのだ。

 二人はいつしかやめられなくなっていった。使いだして数年経(た)つと、大変なことになるのではというおそれが胸に宿ったが、「いつでもやめられる」と自分をごまかしていた。薬に逃げる事情もあった。

「従業員のトラブルもあり、エステの事業は年を追うごとに悪くなった。そんなストレスを忘れるべく薬と彼女に逃避していたんです」

 そして一六年六月、逮捕の時が訪れた。

 留置場から離婚届を提出し、今後どうしていくべきかを考え続けた。ある時、麻薬取締官に聞くと、依存症の治療をしている松本医師のカウンセリングを受けてはどうかと提案された。保釈後、高知さんは松本医師の診察を治療として通うことにした。

「ギャンブル依存症問題を考える会」の田中紀子さんと。二人で運営する動画「たかりこチャンネル」もある
「ギャンブル依存症問題を考える会」の田中紀子さんと。二人で運営する動画「たかりこチャンネル」もある

 わだかまり解いた「生前の言葉」

 それでも傷つくことは少なくなかった。親しくしていた友人も多くが離れた。誰を信じていいかわからない。そんな不安な日々が続くなか、現れたのが公益社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」の代表・田中紀子さんだった。

 田中さんは、高知さんの意向も構わずズケズケと踏み込み、語ってきた。その率直な存在が新しい世界へ踏み出すきっかけになったと高知さんは言う。

「自分一人で考えてもわからんから、もう死のうかと考えていた。そんなとき、神様が(田中)りこちゃんていう存在を投げてくれた。ひどく強引なね。だけど、彼女自身も依存症者でしたとさらけだして、僕に話をしてくれた。そこから再スタートが始まったんです」

 田中さんは強引に高知さんを自助グループに誘い、回復プログラムに取り組みだした。そんなプログラムの中には歌手やアナウンサーなど、同じように過去に薬物依存に陥った著名人を集めてのミーティングもあった。

「メディアによるバッシングは一般の人にはないことで、そのせいで引きこもったり、被害妄想で怖くなったりする。ここから脱出するのは大変なんです」

 こうした回復プログラムに乗るなかで、高知さんは自分の過去に向き合うことを余儀なくされた。一方、田中さんは田中さんで、高知さんと話すなかで、高知さんが特殊な環境で育ってきたため、認知の歪(ゆが)みがあることに気づいたと言う。

「やはり親子の関係。高知さんは幼い頃、親から愛されていなかったんじゃないかという深い疑問があった。そこから向き合い直す必要があると思いました」

 二一年夏、高知さんにとって認識を変える出来事が起きた。高知さんが地元の高知に帰ったときのこと。田中さんも同行し、高知さんの過去の交友関係から母の知人らに話を聞いていった。すると、ある駐車場で突然声をかけられた。

「『丈二(本名)君!!』と言う女性がいる。その女性の母親が僕の母親の知り合いでした。後日、その女性とお母さんに会うと、その母親は『あなたが小さい頃、あなたのお母さんから、いつも丈二が一番だって聞かされてた。ものすごく丈二君を大事にしてた』と言い出したんです。驚くわ、うれしいわでね……」

 母は我が子を愛し、誇りに思っていた。この偶然の体験は高知さんの内心を大きく変えたという。

「なにか導かれた出会いのように思うし、それまでのわだかまりも解けた気がする。それは薬物依存や破滅的な生き方、満たされない思いの原点だった。でも、そういう自分の過去に向き合い、語るなかで、自分が埋め合わせされていると気づいていったんです」

 だからこそ、高知さんはいまが一番心の充足感があると言う。

「お金で成り上がろうとしていたのも満たされていなかったから。でも、失敗しても、生き直そうと思えば生き直していけるんです」

 もり・けん

 ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞

「サンデー毎日6月25日号」表紙
「サンデー毎日6月25日号」表紙

 6月13日発売の「サンデー毎日6月25日号」には、ほかにも「荻原博子が徹底追及 マイナンバー改正法は、ただちに撤回するべきだ!」「緊急検証4 接種後死亡『2000人超』をどう考えるか! 『コロナワクチンの安全性』情報公開が少なすぎる!」「『リーガル女子』台頭の理由 東大は文Ⅰで3割突破 早慶、明治、中央は女子校が首位」などの記事も掲載しています。

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

12月3日号

経済学の現在地16 米国分断解消のカギとなる共感 主流派経済学の課題に重なる■安藤大介18 インタビュー 野中 郁次郎 一橋大学名誉教授 「全身全霊で相手に共感し可能となる暗黙知の共有」20 共同体メカニズム 危機の時代にこそ増す必要性 信頼・利他・互恵・徳で活性化 ■大垣 昌夫23 Q&A [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事