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神谷美恵子書簡にみる 美智子妃の憂鬱と苦悩 社会学的皇室ウォッチング!/81 成城大教授・森暢平

南房総への旅で花を摘む美智子さま=上皇后(千葉県館山市で1964年3月)
南房総への旅で花を摘む美智子さま=上皇后(千葉県館山市で1964年3月)

 神谷美恵子(1914―79年)は精神科医であり、哲学・文学の翻訳でも知られる。65年からは、瀬戸内海のハンセン病療養施設「長島愛生園」の精神科医長を務めており、また同じ年、美智子皇太子妃(当時。現上皇后)の相談役にもなっている。その神谷が、田島道治(みちじ)・前宮内庁長官に宛てた書簡がこのほど公開された(『昭和天皇拝謁記』第7巻〈岩波書店刊〉)。そこには、美智子妃の苦悩と孤独が生々しく描かれていて、息を呑(の)むほどだ。

 結婚から4年後の63年、美智子妃がノイローゼ気味となり、長期の転地療養を行ったことはよく知られる。皇太子妃選定にかかわっていた田島は、宮内庁を退いてから10年以上経(た)っていたが、アフターケアの意味合いもあって美智子妃のことを気に掛けていた。自分の親友である前田多門(元文相、のち東京通信工業〈ソニー〉初代社長)の娘、神谷を美智子妃の話し相手とすることにした。田島によると人生観、宗教観に触れた会話を神谷と交わすことによって美智子妃の心が休まる効果を期待したという。

 神谷は、長島愛生園での経験を踏まえ、66年に主著となる『生きがいについて』を出版する。暗闇にいる人こそがむしろ「光」を感じるという事実から、困難の意味を探る営為が「生きがい」を見つける意味であるという思索をまとめた。神谷は、美智子妃より20歳年上だが、外国に育ち、哲学と文学に造詣が深いというバックグラウンドが、美智子妃の志向性とマッチした。

 神谷が、美智子妃と初めて対話したのは65年7月8日。「『自省録』のことは、〔美智子妃〕殿下のほうから話を出され、〔略〕中の文句まで暗称(〔唱〕)しておられるのには恐縮致しました」(神谷書簡65年7月15日)。

『自省録』は、2世紀のストア派哲学者で、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの著書で神谷が翻訳した。世の栄華がいかに空(むな)しいかを自覚しなければならないという自戒の言葉がちりばめられている。その訳書を美智子妃が読み、印象的な部分を暗唱までしていたというのである。

 書簡は次のように続く。「お好きなフランスの文学者サンテグジュペリの話などよもやまの話がはずみ、らい(ママ)〔ハンセン病〕とサンテグジュペリに関する本をお送り申上げるお約束をしてまいりました。サンテグジュペリの遺稿で大部の主著が、恰度(ちょうど)王者が一人称で理想の国づくりを記した形になつて居り、文体も大へん美しい散文詩のようなもので、内容も精神的に極めて善いものでございますので、一寸(ちょっと)そのお話を申上げましたところ、ぜひよみたいとの仰せでございました」

『星の王子さま』で知られるサンテグジュペリの話で盛り上がり、神谷はその後、紀伊國屋書店で原語版をフランスから取り寄せ、美智子妃に渡した。初対面の美智子妃は、神谷の話が楽しかったようで「ごく自然に皇室でのお立場のむつかしさ」の話も出た。

 最大の悲劇は「孤独」

 神谷は兵庫県芦屋市に住んでおり、上京する用事があるたびに東宮御所を訪ねた。1966年4月21日書簡には以下のようにある。

「お目にかかります度毎(たびごと)に、せきを切つたようにるる(〔縷々〕)としてお悩みをお話になり、それが次第に多くの時間を占めるようになりました。朝おき出せないほどの憂うつにも縷々襲われになることを伺いまして、何とかしてさし上げたいと先日考えた次第でございます。おそらくこれはどなたにも仰有(おっしゃ)らないことかと存じますが――」

 神谷は精神科医であるが、侍医ではない。美智子妃のことは東宮侍医が診ており、神谷は治療ではなく、話し相手として美智子妃と接していた。

「妃殿下の最大の悲劇は『孤独』でいらつしやることのように思われます。お悩みはもちろんのこと、たとえば詩とか文学とか、ご関心のふかい題目についても気楽に話合える相手がいない、と先日仰せでございました」

 幼い頃から本に親しみ、卒論では英国人作家ゴールズワージーの『フォーサイト家物語』を取り上げた美智子妃。その卒論「フォーサイト家年代記における相克と調和」では、資産家の主人公たちの物質欲と、美術趣味、自由な人間的感性の葛藤を分析した。しかし、宮中官僚や女官たちに、文学を語る者は皆無だった。それは美智子妃の孤独の最大の要因となった。

 66年8月16日書簡には次のようにある。「この前妃殿下から三時間近くにわたつてうかゞいましたお悩み――それは神経症の名がつくほどのものでございますが――は皇室制度というものについてのご不安感が大きな原因になつて居ります」

 美智子妃が不安感を持っていた「皇室制度というもの」が具体的に何を指すのかは分からない。しかしこの時期になっても、高松宮喜久子妃をはじめとする皇族やその周辺には、民間出身の美智子妃へのわだかまりが残っていた。高松宮妃は田島に対し、「軽井沢でテニスで機会を作り、そして〔美智子妃を〕持出した」と東宮参与小泉信三や田島への不満をぶつけた(「田島日記」67年8月18日条)。

 旧華族の女性を「探しもしないで」、軽井沢で出会いの場を作ったという批判である。美智子妃の不安感も、こうした自分への風当たり、皇室の守旧的体質に対してではなかったか。

 「週刊誌記者に話したい」

 美智子妃は、神谷に対し、「両陛下、入江〔相政(すけまさ)侍従〕他の皇族を各そういう新聞雑誌の連絡があるようだが、私にはない故(ゆえ)煩わしい」と話した(「田島日記」67年3月4日条)。昭和天皇は入江侍従がスポークスマンとなりメディアに情報を流し、各皇族もまたメディアにつながりがある。だが美智子妃にはそんなルートがないという不満である。メディアにはときに美智子妃批判が載るが美智子妃には反論する手段がなかった。美智子妃は、神谷に新聞記者を紹介するよう依頼し、「週刊誌にでもあひたい」旨を「いつも」話していた(「田島日記」67年10月30日条)。

 美智子妃は、記者と直接、話をし、自分の境遇や思いについて説明したいと考えたのだろう。周囲とのつながりを制限され、宮中に取り残された感がある美智子妃はそう考えるほど追い詰められていた。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日8月6日号」表紙
「サンデー毎日8月6日号」表紙

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