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田島道治日記に見える「美智子妃いじめ」の実相 社会学的皇室ウォッチング!/82 成城大教授・森暢平
このほど公開された元宮内庁長官、田島道治(みちじ)の日記(『昭和天皇拝謁記』第7巻〈岩波書店刊〉)には、いわゆる「美智子妃いじめ」を示唆する記述が出てくる。 1967(昭和42)年8月18日、田島は高輪の高松宮邸を訪問し、喜久子妃と面会する。喜久子妃は、自分と縁続きであった名和東宮女官が語った次のような話を人づてに聞き、田島に伝えた。
「こんなよめさん民間にもなし。〔美智子〕妃殿下衆人満座で人をしかり、皇后様のこともあまりよくいはず。大膳が夜食的のものを買ひにやらされる。Taxi代に困るとか。煩しいと思ふものは必ず買ふ」
東宮侍医、由本正秋が周囲に語った美智子妃評として、名和女官が身内に伝えた言葉であった。美智子妃は、皆が見ている前で人をしかり、姑(しゅうとめ)である香淳皇后のことをよく言わず、食事係である大膳課を使って夜食を買いに行かせ、そのタクシー代に困るという内容である。喜久子妃はこの半月前にも田島に対し「帽子靴三十贅沢、欲しいものは買ふとのこと」(8月2日条)と美智子妃を評している。美智子妃を浪費家として批判しているのだろう。
喜久子妃は、間接情報として右の話を田島に伝えた。だが結局のところ、噂(うわさ)を使って美智子妃を批判することに主眼があると考えられる。美智子妃の振る舞いに問題があることを田島に伝えたかったのである。喜久子妃の不満は、その9年前の妃選考にも及ぶ。
「遡りて美智子妃殿下につき、両妃殿下〔秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子〕にいはざりしことを、忘れず御殿場にて(田)を吊(つる)し上げし話持ち出さる。然し同時に、東宮が皇后さまに美智子貰つてくれとせがまれし話もなさる故、実情は多少御承知と思はるゝが、軽井沢でテニスで機会を作り、そして持出したと迄小泉〔信三〕などを思つて居られるらし。探しもしないで云々」
1958年の妃選考で、勢津子妃、喜久子妃には民間妃を検討していることは全く伝えられなかった。情報をあとで知った勢津子妃、喜久子妃は8月25日、御殿場の秩父宮邸に田島を呼び、民間妃(正田美智子)を前提に進む縁談話に「憤慨」し、いったん話を中断するよう求める。これが「御殿場吊し上げ事件」である。
喜久子妃は9年が経っているのに、民間妃を宮中に入れた責任者である田島、そして東宮参与・故小泉をなお責め続けた。皇太子(現上皇)が、母である香淳皇后に対し、美智子妃を「貰つてくれ」とせがむなど、美智子妃選定は皇太子の意思であるという事情を喜久子妃は知っているようではあった。しかし、小泉らがテニスコートでの出会いを演出し、そのなかで正田美智子を持ち出したと、喜久子妃は思っていた。
「華族は銅臭を追わない」
喜久子妃の怒りの理由を、現代の人が実感として理解するのは難しいかもしれない。戦前の身分秩序のなかで生きてきた旧華族は、民主主義の戦後の時代、その秩序がすべて悪であるとされる風潮にはついていけなかった。
これを理解するために、1965年に『女性自身』誌上で展開された橋本・酒井論争を紹介しよう。皇太子の学友であり共同通信記者を務めていた橋本明が「兄弟(あにおとうと)/両殿下への提言」という原稿を執筆したのに対し(8月9日号)、旧華族であることを売りに活動していた評論家、酒井美意子(前田侯爵家出身、酒井忠元元伯爵夫人)が反論したのである(8月16日号)。
「彼ら〔旧華族〕のあまりにひどい腐敗ぶりと、手前勝手な生活」「すべてを失い、存在の基盤をうばわれた元華族が、どのようにノタウチ、かつての名誉を自ら汚し、醜態を演じていった」かと述べる橋本に対し、酒井は以下のように反論する。
「私の父、侯爵・前田利為は、若いころ、本当は実業家になりたかったそうです。しかし、それは所詮、かなわぬ望みでございました。なぜならば、華族は生まれながらにして、皇室の藩屏(皇室を守るとりで)となる運命を背負わされていたからです。私利私欲のため、銅臭(どうしゅう)を追う実業家になることなど、許されなかったのです。華族の男子は、すべて軍人となることを強制されておりました。現代の若いかたたちは『醜(しこ)の御楯(みたて)』ということばを本当に理解できますかしら? 旧華族や、旧皇族や(〔は〕)、皇室のまわりにあって、率先して身を挺(てい)し、これを守護する宿命を負わされていたのです」
旧華族は、ノブレス・オブリージュ(高い社会的地位に伴う義務)を引き受けていたという自負である。
旧華族、とりわけ、女子学習院同窓会(常磐(ときわ)会)のなかで皇族に近いグループにとって我慢ならなかったのは、皇后という地位に旧華族でない女性が就く可能性が生じたことである。こうした立場から見ると、美智子妃は鼻もちならない人物であり、その振る舞いは徹底的にチェックされるべきということになる。喜久子妃が、美智子妃につらく当たったのには、旧華族(喜久子妃は、徳川慶喜家出身)としてのプライドがそうさせたという側面があるだろう。
旧華族の巻き返し
「美智子妃」選定で何の影響力をも発揮できなかった常磐会は、皇太子の次弟である正仁親王(義宮(よしのみや)、現常陸宮)の妃探しに全力を挙げる。旧華族の女性のなかで適任者を探し、最後にたどり着いたのが旧弘前藩主、津軽家出身の津軽華子であった。1964年2月に婚約が決まる。旧華族の巻き返しであった。酒井は「義宮妃決定の重要ポイントは、皇后さまにあったとうけたまわっております。理性的で親思いの義宮さまが、妃は両陛下、ことに皇后さまに気にいっていただけるかたをと望まれたと伺っています」と書いている。旧華族である津軽華子は「皇后さまに気にいっていただけるかた」であるが、美智子妃はそうでないような書きぶりである。
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最近、小室眞子さんは、学習院出身者から配偶者を選ぶべきだったという新書が発売され話題になっている。身分制度はなくなり、旧華族が解体されてもなお、こうした主張を真剣に論じる方がいるのは驚きである。この本については別に論じることにしよう。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など