週刊エコノミスト Online サンデー毎日
障害当事者となり切り開く IT医療の「フロンティア」――脳神経外科医・高尾洋之 ジャーナリスト・森健
セカンドステージ―「自由」を生きる―/9
ある分野で実績を上げた著名人の新たな挑戦を追う好評シリーズ。今回の主人公はデジタル医療の第一人者で、むしろ変わったのは「境遇」だろう。だが、ITを駆使して医療の新たな地平を切り開こうとする姿は、人間に秘められた可能性の豊かさを再認識させてくれる。
七月半ば、東京慈恵医大で行われたセミナー。冒頭、河野太郎デジタル相が動画で登場した。
「アクセシビリティーはデジタル庁の重点政策の一つであり、障害者だけでなく高齢者、認知症の方やデジタルデバイスに不慣れな方(略)など必要な取り組みの一つだと考えております」
次の動画で登場したのがセミナーの中心人物で同大准教授の高尾洋之さんだった。高尾さんは脳神経外科医であると同時に、二〇〇〇年代からデジタルを利用した医療の技術開発に尽力してきた第一人者だ。
セミナーでの高尾さんの動画は手が込んでいた。解説するのは高尾さんの声を学習させたAIの声。撮影場所は彼の自宅居室。映し出された部屋には、療養ベッドと液晶テレビ、ベッド脇にはiPadとGoogleスピーカーがある。療養ベッドに腰掛けた高尾さんがゆっくり声をかける。
「オッケー、グーグル。テレビをオン」
AIで対応するスマートスピーカーから声が返ってくる。
「はい。テレビをオンにします」
テレビがついた。
次に高尾さんはiPadのAI、Siriに声をかけると、今度は電話がつながった。IT機器によるアクセシビリティー(利用しやすさ)を研究者自らが証明するデモだった。 その翌週、大学の一室。高尾さんは改めて動画の意義を振り返った。
「動画のように生活できるまでは大変でした。でも、こう使えることを知らない人も多い。医師でも知らない人がいる。だからセミナーを開くんです」
実は、高尾さんはデジタル技術を開発するだけでなく、いま自身が障害の当事者でもある。それがこのセミナーの重要な点だった。
一八年八月、高尾さんは重症ギラン・バレー症候群にかかった。同病は末梢(まっしょう)神経に障害を起こし、力が入らなくなる。意識不明に陥り、目覚めたら四カ月後だった。自律的な呼吸ができず、気管を切開、人工呼吸器を入れた。目覚めたときには、目以外がまったく動かなくなっていた。人工呼吸器を外せたのは一年半後の二〇年春だった。
現在、高尾さんは回復途上にある。ゆっくりであれば会話はできる。指や腕も少しは動かし、iPadの操作も少しはできる。だが、自由に動き回るような動きは実現できていない。
「歩くリハビリは毎日やっています。足は重いですからね……」
それでも高尾さんは自身の姿や活動を積極的に開示している。
「医師の知見をもちながら障害者の視点で活動できる人はあまりいないと思うんです。だから僕が活動する意味はあるかなと」
父の脳卒中で「デジタルシフト」
高尾さんは一九七五年、東京都葛飾区で、祖父が起こした建築資材会社の家に生まれた。幼少期、喘息(ぜんそく)などの不調があって小学生の頃、家族で千代田区に引っ越した。小中時代はゲームに夢中で、家はたまり場と化していたという。
「家が小学校のすぐ近くでみんなが帰りに寄っていくんです。塾に行くまでうちにいると学校で問題にもなりました。でも、ゲームセンターに行くよりはいいとなって、最終的には学校公認になりました」
高校は地図にコンパスで円を描き、家から一番行きやすそうだった高校に進学。当時は医学に興味があったわけではなく、むしろ三年生になるまでは理工系に進もうと考えていた。
「でも、親友が医師を目指そうとしていて『一緒に医学部に行かない?』と誘われた。それで最終的に入学したのが慈恵医大だったんです」
慈恵には幼い頃、入院した経験があった。それも多少志願に関係したという。「幼稚園の頃、東京慈恵会医科大葛飾医療センター(当時は青砥病院)に一年間入院していたことがあるんです。腹痛ですが原因がわからず、二十針も縫う開腹手術でした。だから、慈恵に親しみはあったと思います」
九五年に慈恵医大に入学。大学ではゴルフ部やアルバイトなど普通の学生生活を送っていたが、六年のとき、医師としての方向性を決める出来事があった。
「四月末の連休の時期、家にいた父が『頭が痛い、足も動かない』と言いだしたんです。それですぐ私が父を慈恵に連れていった。診断の結果はくも膜下出血。このとき、脳卒中は時間こそが大事だと教えられ、よくしてくれた先生がたに『お前も脳神経外科に来い』と言われたんです」
翌二〇〇一年、医師免許を取得し、臨床研修後に脳神経外科に入局。コンピューター・シミュレーションを用いて、頭をぶつけたときの衝撃を調べる研究などを進めた。
そんなところから、脳疾患を中心に、医療におけるデジタルツールを採り入れる考えを広げていった。
脳の疾患で重要なのは時間だ。脳梗塞(こうそく)であれば四時間半以内に血栓を溶かせるかどうかが鍵だ。逆に八時間以上かかってしまうと、脳細胞は壊れていき、回復が難しくなる。いわば救急現場が一刻を争う事態だ。
そんな知見のもと、高尾さんが目をつけたのがiPhoneだった。従来の携帯電話に比べて大画面で解像度の高い画像を送ることもでき、さまざまなアプリケーションを入れられる。高尾さんは自身でプログラミングをしてiPhoneで医療画像を送って見られるアプリを開発した。
「素人がつくったのでイマイチでした。画像の転送も遅かった。でも、開発を始めたのはiPhoneの3Gが出てすぐ。それをもとに富士フイルムが本格的なのをつくってくれた。それは一一年に『i-Stroke』というソフトとして発売されました」
同ソフトは、医療機関に運ばれた患者のMRIやレントゲンなどの画像を院外の専門医と共有できるシステム。専門医がその場にいなくても、画像を見て一定の診断や処置の指示ができる。そうすれば時間が迫る脳の疾患に貢献できるという画期的なソフトだった。
だが、病院ではあまり理解が得られなかった。
「当時、医師でもまだガラケーが主流でスマホ自体がわからない。大きな画像を送るとサーバーの費用もかかった。だから、なかなか受け入れられませんでした」
そこで高尾さんらは海外の大学や医療機関にも共同研究を申し入れようと展開し始めた。採用してくれた米カリフォルニア大ロサンゼルス校には毎月のように足を運び、ドイツなど欧州にもたびたび赴いた。
その後、このソフトは権利の譲渡や改変を経て、アルム(東京)というベンチャーから「Join」という名前で出された。使い方はLINEのようにシンプルになり、救急現場や地元の病院と専門医がいる病院をつないで即時に患者の情報を共有できるようにした。一六年には「医療機器プログラム」として日本で初めて公的医療保険に承認された。
「慈恵がJoinを導入後に脳卒中発症から診断までの時間を調べたところ、導入前と比べて四十分短縮できた。これだけ違うと、予後も大きく変わり、入院日数も十五%削減されたのです。従来なら寝たきりになってしまう患者さんの数を減らせると思いましたね」
この業績もあり、高尾さんは厚生労働省に出向したり、内閣官房情報通信技術総合戦略室で補佐官を務めたりすることにもなった。デジタル医療を導入して推進させる。その気運で動いていたのが一八年だった。
「殺してほしい」とすら言えない
だが、その夏、突如思いがけない病魔に襲われた。
八月十四日朝五時、高尾さんは起きると、愛猫三匹に餌をあげようと起き上がろうとした。だが、左足に力が入らずベッドから転げ落ちた。這(は)って移動したが十分ほど経(た)ってもよくならず、救急車を呼んだ。
「左足だけ動かず、左手は動く。だから脳梗塞とは思わなかった。病院に運ばれた時点でもスマホは使えたし、実は検査したデータを見せてもらい、自分で自分を診断した。でも、異常がない。おかしい、何だろうと経過観察で入院した。そしたらその日の夜、23時のテレビのニュース番組を見終わった頃に意識を失い、気づいたら数カ月経っていたのです」
目が開くと、耳は聞こえるものの身体はまったく動かない。喉には人工呼吸器が装着されている。頭もはっきりせず、事態がわからない。理解するまで二~三週間。意識を取り戻したと言えるのは十二月だった。
「起きているのか覚めているのか……。寝っぱなしなので背中やお尻とか痛い感覚はある。でも、それも伝えられない。意思表示ができないのが、なによりつらかったです」
判明した疾患名は重症ギラン・バレー症候群だった。疑われた原因は発症の前週、勤務先近くの飲食店で食べた鶏肉だ。カンピロバクターという細菌は十分火が通っていない鶏肉に含まれることが多く、食中毒やさまざまな疾患を引き起こす。それが劇症化したのが高尾さんのケースだった。
人工呼吸器をつけながら高尾さんは絶望的な思いになっていたという。
「体が痛くても言葉にできない。生きているだけでつらい。コミュニケーションができない。殺してほしいと思いました。でも、それすら言えないんです」
意思疎通にはさまざま取り組んだ。視線の動きで文字を入力する装置、あるいは文字を記入した透明なアクリルの文字盤。「目薬」「痰(たん)を取る」など一定の動きを区切って記した文字盤は有効だった。だが、それでも十分に伝えられるわけではない。ストレスは相当高かったという。
できることと言えば、考えることだけだった。自分がやってきた医療や技術開発は意味があったのか、自分は間違っていたのではないか。そんなことを延々と考え続けていた。
「自分がこの先良くなることを想像できなかった。二〇年二月ごろ、呼吸器が取れた後、今度はコロナ禍になって面会もできなくなってつらかったですね……」
「不便を便利に」なら変えられる
変化の第一歩はiPadだった。見舞いに来た友人が高尾さんが声を出せることになったのを見て、音声入力をやってみるべきと助言した。その時点で音声コントロールは英語しか対応していなかったが、そこから挑戦を始めた。
「日本語もうまく発話できないのに、英語の発音はさらに難しかった……」
しばらくして日本語にも対応するようになったが、高尾さんは音声を出せるようになってから本格的に障害者対応のアクセシビリティー機能を自身に適用するようになっていった。AIスピーカーを各種設置し、エアコンやテレビなど室内の器具にも音声の指示で対応できるようにした。
当初は慈恵の付属病院と関連病院を転院しながら入院を続けており、その際に申し送りができるようにiPadやAIスピーカーの扱い方を記録していた。それは退院後には、自宅の環境整備に役立てることができた。そんな経験的な記録をまとめると、元々のデジタルの知見も踏まえ、昨年に本として出版することもできた。医師に障害者という視点を合わせた知見は新しい発信となった。
「院外で生活するときにアクセシビリティー機能を知っていると選択肢が増える。しかも、高価な障害支援用の機器じゃなく、誰でも買えるようなもので障害者が目的を達成できる。もちろん、それは高齢者でも使える。そのアクセシビリティーの向上はこれからの社会で必要だと思うんです」
高尾さんが以前関わったデジタル医療のソフトはJoinだけではない。コロナ禍の期間、空港の検疫で健康状態の証明に公的に利用されていたスマホアプリ「MySOS」。高尾さんはこの開発にも関わっていた。その意味でデジタル医療を推進してきた第一人者が、病に倒れた損失は社会にとって小さくない。
だが、期待は途絶えていない。慈恵は今も高尾さんを先端医療情報技術研究部の准教授として雇用しており、高尾さんも研究の方向性に、アクセシビリティーの普及啓発を加えた。高尾さんには病気になったからこそ気づいた考えがある。
「倒れる前、医療にデジタルを導入しようとしていたのは自分が正しいと考えていたから。でも、面倒に感じたり、責任回避で反対したりする人は予想以上に多い。社会はすぐ変わらないんです。でも、不便を便利にするだけなら一人ひとりで変えられる。まずそれを率先して変えていくのが私の仕事かなと思うのです」
もり・けん
ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞