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成田市で見学できる皇太子の戦時「防空壕」 社会学的皇室ウォッチング!/83 成城大教授・森暢平

成田市に残されている戦時中の皇太子用防空壕の内部(人物は案内のスタッフ)
成田市に残されている戦時中の皇太子用防空壕の内部(人物は案内のスタッフ)

 戦争と平和を考える8月。千葉県成田市の「三里塚記念公園」(旧宮内庁下総(しもうさ)御料牧場)にある皇室用防空壕(ごう)を見てきた。皇室の「防空壕」といえば、戦争終結を決めた1945(昭和20)年の御前会議の舞台「御文庫(おぶんこ)附属室」が有名だ。だが、皇居内にあり、保存状態も良好とは言えず、写真が公開されているだけだ。一方、成田市の防空壕は規模こそ小ぶりだが、2011(平成23)年から一般公開されており、皇室の防空壕がどのようなものかを体感できる貴重な施設である。

 1885(明治18)年に宮内省直轄となった下総御料牧場は、敷地のほとんどが成田国際空港用地となるため1969(昭和44)年に閉場。空港用地から外れた国有地が成田市管理の公園(2・9㌶)になった。戦後の一時期、牧場で採れたサツマイモやジャガイモの貯蔵庫に使われていたようだ。しかし、成田市に移管されたあと、入り口はコンクリートで蓋(ふた)がされ、その上に土をかけて「封印」された。地元の歴史愛好家が復元の要望書を寄せたこともあり、2008(平成20)年に成田市が調査し、出入り口に上屋を造るなど整備し、公開してきた。

 防空壕は地表面から5・2メートル地下にある。主室は幅2・5メートル、奥行4・5メートル、高さ2・5メートル。主室を断面で見ると、U字を逆にしたカマボコ形。壁は厚いコンクリートで固められ、厚さ20センチの頑丈な鉄扉(重さ約5トン)で部屋が密閉される構造になっている。手前と奥に附属室が付き、出入り口は2カ所。爆風を逃がすための換気口もある。当時の電灯や電気コンセントの跡も残されている。

 出入り口の上屋から入り、階段を26段下りると、猛暑の外気とはうって変わってひんやりしている。気温は21度であった。長く封印され、外気の影響が少なく、水の浸入も防がれていたため、コンクリートの劣化もあまり進んでいない。成田市は、新たに電気を通して見学しやすくしているが、80年前にタイムスリップした気分になる。

 宮内庁に残る記録

 この防空壕は、当時の皇太子(現・上皇)のため1941(昭和16)年に造られた。大きさから考えても、皇太子一人が側近と過ごすためのものだと考えられる。

 侍従小倉庫次(くらじ)の日記によれば、皇太子の避難地(疎開地)は「大体、下総牧場」に決定していた。だが、宮内大臣松平恒雄が昭和天皇に奏上したところ、栃木県日光のほうがよいと希望した。これに対し、侍医頭(じいのかみ)八田善之進が寒冷の地は好ましくないと下総御料牧場を推す一方、防空の面から陸相東条英機が下総御料牧場に反対した(『小倉庫次侍従日記』41年9月17日条)。

 結局、宮内省はこの時点で、皇太子の疎開先は決定せず、下総御料牧場のほか、日光の田母沢(たもざわ)御用邸、静岡県の沼津御用邸の3カ所に、ほぼ同じ「特殊防空壕」を造り、万が一の疎開に備えることになった。

 下総御料牧場の防空壕工事は、間組(はざまぐみ)(現・安藤ハザマ)が担当したことが分かっている。防空壕の上に土を盛り、存在をカムフラージュしたという(『間組百年史1889―1945』)。

 この防空壕について、従来、宮内庁に資料は残っていないとされていた。しかし、今回、宮内公文書館を調査してみると、資料はあった。「昭和16年臨時防空施設費12」(識別番号20748―12)というファイルに、工事関係の文書がある。それによれば、間組は、牧場職員が使うと考えられる20人用の簡易防空壕、貯水池とともに6万8860円で工事を請け負っていた。工期は41年10月24日から12月22日の約2カ月。文書には、工事の内容として「各出入口ヘ木扉並ニ鉄扉取付ケ、壕上部ヘ布団『コンクリート』層設置、地表面ハ図頭型ニ盛土ナシ張芝ヲナスモノトス」とあり、詳細な設計図面も残されていた。

 宮内省は間組に対して「仕様書並ニ附属図面ニ準拠シ係官ノ指揮監督ニ従ヒ前記官給材料ノ外一式請負ヲ以テ所定期間内ニ竣成セシム可シ」と指示した。日米開戦が迫るなか、突貫工事を迫られたのだ。昭和天皇は11月19日の段階で、「未だ三里塚完成せざるやうなるが……」(『小倉庫次侍従日記』)と述べており、急ぎの工事の進捗(しんちょく)にやきもきしていたようだ。また、宮内省は「本工事就業諸職工ハ身元確実ナル者トシ静粛ヲ旨トシ粗暴ナル言動ヲ謹(つつ)シムモノトス」と職人たちへの注意も細かかった。

 結局、使用されず

 そもそも皇室の防空壕は、天皇、皇族を空襲から守るため、各施設に建設されていた。「応急的待避施設ニシテ投下弾ノ破裂ニ基ク弾片、破片、爆風等ニ因ル危害、更ニ出来得レハ毒瓦斯(ガス)ニ因ル危害ヲモ防止スルヤウ構築ス」(「防空壕構築計画」〈1941年3月〉、宮内公文書館「防空関係工事録1」〈識別番号10756―1〉所収)とされていた。爆弾、焼夷(しょうい)弾だけでなく、化学兵器での攻撃も想定されていたのだ。

「防空壕」という言葉だけだと、地面に穴を掘った粗末なものを想像してしまうが、当時の最先端の技術を駆使して構築した頑丈な建造物だったのである。その意味では「防空施設」と呼んだほうがいい。

 皇太子は1944(昭和19)年3月23日から1週間ほど下総御料牧場に滞在したことがある。春休みの馬術の鍛錬のためであり、疎開ではなかった。まだ空襲はなく、「防空壕」が利用されたとは考えられない。皇太子は結局、同年5月から沼津、7月から日光に疎開し、結局、下総御料牧場は疎開先にはならなかった。

 皇統を護持するために急ぎで造られ、結局は利用されなかったこの施設。何のため、誰のための戦争だったのか、歴史を考えるには十分な材料である。

   ◇  ◇  ◇

 三里塚記念公園への交通は、JR成田駅東口から八日市場駅、貨物管理ビル前、航空科学博物館行きなどのバス(JRバス関東)に乗り、バス停「三里塚」まで約25分の旅が一般的。公園内の「三里塚御料牧場記念館」のスタッフに声を掛けると、防空壕を案内してくれる(ほかに皇族宿泊用の貴賓館を屋外から見学できる)。開館は午前9時から午後4時半。月曜日および年末年始は休館。無料。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日9月3日号」表紙
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