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「村々」の皇室イベント 新嘗祭献上の抜穂祭 社会学的皇室ウォッチング!/88 成城大教授・森暢平
11月23日の宮中神事「新嘗(にいなめ)祭」。そこに47都道府県の農家が、米を献上することはご存じだろうか。稲刈りの季節が終盤を迎えた今、各地の「村々」では、その収穫儀式「抜穂(ぬいぼ)式」が行われている。
少し回り道になるが、よく知られる「大嘗(だいじょう)祭」での献穀について説明しよう。天皇の代替わりの直後に行われる新嘗祭は特別に大嘗祭として行われる。東日本から悠紀(ゆき)斎田、西日本から主殿(すき)斎田が選ばれ、収穫された新穀が儀式に使われる。2019年の大嘗祭では、栃木県高根沢町が悠紀斎田、京都府南丹市が主殿斎田となった。ほかに各都道府県からの農林水産物が「庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの)」としてお供えされる。山形のラ・フランス、岐阜の干し鮎(あゆ)、富山のシロエビ燻製(くんせい)、福岡の干鯛(たい)などの特産品が献上された。このほか全都道府県は米一升(約1・5㌔)を納めることが習わしである。
毎年の新嘗祭でも、これと似た各地からの米献上が行われる。各都道府県は、地元JAと相談してその年の斎田を決定する。石川県を見ると、今年は加賀地区と能登地区で1カ所ずつの献穀田が選ばれた。県内に15あるJAの持ち回りであり、加賀地区から白山市、能登地区から穴水町が選ばれた。白山市の献穀者は、同市小川町の農業、中秀邦(なかひでくに)さん(72)であった。町内会長や地元JA理事を務めた地域社会のリーダーだ。その中さんは水田185㌃などを経営する。このうち926平方㍍が献穀田となり、中さんは5月21日の「御田植式」以来、丹精込めて、コシヒカリを育てた。
孫が刈乙女に
中さんの田における抜穂式は9月24日に行われた。出席者には、馳浩・石川県知事ら地元の有力者がズラリと並ぶが、中心は地域の人たちや親族らで、約150人が出席する小さめのイベントであった。取材に訪れたのは地元紙『北國新聞』、地元のケーブルテレビ「あさがおテレビ」『日本農業新聞』の3社だけ。大きな注目を集めたとは言えないが、中さんをはじめ関係者、地元の人にとって、皇室とのつながりを確かめる重要な儀式だったと言えよう。
地域の神社の神主による修祓(しゅばつ)の儀、祝詞奏上などが済んだあとのメーンイベントが、刈(かり)乙女(め)による「抜穂の儀」である。紺色の絣(かすり)の着物に赤いたすきを着けた女性5人が田に入り、稲穂を抜き取っていく。実はこの刈乙女は、中さんの孫や親類を含む地元の小学校6年から中学校2年の児童生徒である。このシーンになると、参列者の多くが、スマホなどで彼女たちを撮影し、神々しさから離れ和気藹々(あいあい)とした雰囲気が広がっていた。地区は1954(昭和29)年まで宮保村の一部であった。「村」の皇室イベントは村と皇室をつなげるだけでなく、村の人らを結び付ける統合機能や祭礼機能を併せ持っている。
最後の乾杯は神事としては日本酒となるところだが、「こうしたご時世」であることから緑茶が使われた。挨拶(あいさつ)に立った中さんは、今年の猛暑での米作りの苦労を強調し、周囲の人たちの協力に感謝の言葉を述べた。酷暑のため稲の成長が早い一方で、抜穂式は9月24日の日曜日と日程が決まっていた。献穀田以外の稲刈りは9月上旬に終わっており、その間、中さんは夜間の田に通水し、圃場(ほじょう)温度を下げることで稲を守った。宮中に立派な米を届けなくては、と考える使命感、県内の農家から自身が選ばれた誇り―。それらの苦労はひとかたならぬものがあり、取材に応える中さんの顔からは安堵(あんど)の様子が見てとれた。
収穫した稲は乾燥させたあと精米され、5合(約0・75㌔)が宮中に納められる。献納式は10月下旬に皇居で行われる予定である。コロナ禍以降の過去3年は献納式が実施されず、各都道府県は宅配便を使って献納米を送らざるを得なかった。各地の献穀者たちは今年こそ対面での献納式を期待している。
政教分離との関係
全都道府県から毎年、米を献上する習わしは1892(明治25)年に始まった。当時の新聞記事には以下のようにある。「毎年、新嘗祭には各府県農民より米粟(あわ)等の献納を為(な)す事なるが、本年東京府下に於(お)ける献納米は南多摩郡桑田村(現・日野市)生沼金太郎、粟は同郡町田村(現・町田市)武藤正次郎が自作にて既に収穫時季に接したる処、(中略)米粟共に頗(すこぶ)る良好の作柄なり」(『東京朝日新聞』1897年10月7日)
記事からは、米だけでなく粟も献上されていたことが分かる。明治日本において、すべての庶民が米を日々の主食にしていたわけでなく、粟飯や麦飯を食べていた貧困層も少なくなかった。日本が米作りを中心とした「稲穂の国」であるという言説も構築された概念である。当時の宮内省には、庶民になじみの深い粟をも献上させ、地域の村々と皇室のつながりを人々に実感させる意図があったに違いない。実は、現在も粟の献上を行う25都府県がある。戦後、粟は徐々に生産されなくなるが、依然として伝統を守る場所があるわけだ。
戦前の献米・献粟は農林省の管轄であったが、1946(昭和21)年、宮内省の担当となった。それも神事であるため掌典職の管轄である。
今年の米献上について、各地の新聞を調べたところ、北海道蘭越町・雨竜町、富山県魚津市、福井県越前町、島根県江津市、香川県三豊市、高知県香美市、佐賀県小城市が、献穀地であり、新聞記事になっている。一方、メディアに発表されない(それゆえ報道されない)都道府県も少なくない。それは、知事が出席することも多い抜穂式などの儀式が、政教分離の原則から問題とされるおそれがあるためだ。こうした村々のイベントがあまり知られず、大きく報道されない理由はそこにある。そうした懸念にもちろん理はあるが、にもかかわらず130年以上、各地の「村々」で皇室イベントが営まれ農家の励みと娯楽になってきたことは驚きである。
農業は、自然環境の維持や食料自給の側面からも新たに注目されている。
お供えされた米を食品ロスの観点から新嘗祭後に別に活用してもいいだろう。神事としてだけではなく、さまざまな面から地域の米作りと皇室の関係を再構築し、アピールしていくことも一案である。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など