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児童が皇后の寝室に宿泊 日光・田母沢御用邸の民主化 社会学的皇室ウォッチング!/92 成城大教授・森暢平
栃木県日光市にある旧田母沢(たもざわ)御用邸記念公園。天皇が生活したエリアを含め広大な建物がほぼ自由に見学できる。実は、この建物は戦後、宿泊施設などに利用され、皇后の寝室や御座所だった部屋も客間になっていた。皇室の別荘である御用邸がなぜ、一般市民に開かれていったのだろうか。
JRと東武鉄道の日光駅から西へ約3㌔の場所に、栃木県の外郭団体が運営する旧田母沢御用邸がある。約4万平方㍍の敷地に、約4500平方㍍の建物が立つ。基本は平屋だが、一部に2、3階建ての部分もあり、部屋数は106。一棟の木造建造物としては、日本で最大規模である。
この御用邸が造営されたのは1899(明治32)年。日光は明治初期から富裕層や外国人が避暑に訪れる保養地として知られていた。肺結核を患っていた嘉仁(よしひと)皇太子(のちの大正天皇)は96年夏、日光に2カ月滞在。健康面での効果が高かったことから、嘉仁皇太子の避暑地として、この地への御用邸建設が決まった。もともと建っていた地元の実業家の別邸をそのまま生かし、現在の迎賓館の位置にあった旧赤坂仮皇居の一部を移築した。旧赤坂仮皇居は、紀州徳川家の江戸中屋敷であった。そのため、葵紋入りの釘隠(くぎかくし)や紀州徳川家由来の杉戸絵(杉板に絵が描かれた部屋の間仕切り)が残っている。
逝去前年の1925年まで、大正天皇は23回、田母沢を訪れている。総滞在日数は974日。病気が重くなった18年以降、滞在は長くなった。そのため同年から3年間、政府首脳や軍高官と会う謁見所、表御食堂、側近奉仕者たちの部屋多数が設けられる大規模増改築がほどこされた。また、大正天皇の四男澄宮(すみのみや)(のちの三笠宮)のための澄宮附属邸も設けられた。太平洋戦争中は、明仁皇太子(いまの上皇)が1年間、疎開したことでも知られる。
煤けていた皇族の部屋
田母沢御用邸は戦後の1947(昭和22)年、皇室に課税された財産税の一部として国に物納され、大蔵省関東財務局の管轄となった。旧皇室施設を国民に「開放」することは、当時の国家的課題であり、栃木県は宿泊や研修に利用できないかを検討し、貸し下げを願い出て認められた。まず、澄宮附属邸を「田母沢会館別館」として宿泊施設とした。続いて54年からは、旧御用邸本体も「田母沢会館本館」として宿泊施設とし、一部は「日光博物館」とした。運営するのは、栃木県、日光市、東武鉄道が出資する「日光国立公園観光株式会社」であった。
田母沢会館は、主に学校の宿泊行事で首都圏の小中学生が利用することが多かった。50代以上の読者のなかにも、修学旅行や夏季林間学校で旧田母沢御用邸に宿泊した経験を持つ方もいるだろう。部屋数が多く、クラス数が多い学校でも一緒に宿泊できるメリットがあり、料金も高くなかった。『読売新聞』下町版(53年8月24日付)には、「台東区では今夏、日光田母沢御用邸と塩原温泉の旅館を借りきって二カ所に山の施設を設けたが、すでに三千人が利用」「日光では(中略)社会科の勉強をかねて三泊四日の日程だが、そのなかでも夜になるとみんなわが家への楽しい手紙書きにひとゝときをすごす」と書かれる。
本館(旧御用邸本体)では、皇后の御寝室や御座所、あるいは天皇皇后が日常的に食事をとった御食堂なども宿泊室となっていた。別館の澄宮の部屋も同様である。その部屋にたまたま泊まった児童生徒は、床の間に皇室の御紋章がある違い棚や、他の部屋より豪華なシャンデリアがあることに気を留めることはなかったであろう。戦後、建築から年月が経(た)っていたこともあり、皇族が使っていた部屋ではあったが、煤(すす)けて汚れていた。戦前は、臣下の者が入ることのできない「高貴」な部屋で、子どもたちは無邪気に遊んだり、寝ていたのである。この事実はあまり知られていないが、「戦後民主主義」の時代に起きた珍現象と言える。
田母沢会館のうち別館は78年、本館も86年に宿泊施設としての営業を中止した。本館部分は96年、管理が栃木県に全面的に移管されることになり、本格的調査や修復工事が行われることになった。工費が第1期分だけで30億円が投じられる大規模工事であった。2000年、大正時代の姿によみがえり、県の公園として一般公開が始まった。重要文化財にも指定されている。ちなみに、旧澄宮附属邸があった別館の場所は現在、東武鉄道の所有だが、そこを借り受けたリゾート企業が「ふふ日光」という高級温泉旅館を経営している。
天皇陛下のトイレ
日光田母沢御用邸記念公園の楽しみ方はいろいろある。今の季節だと紅葉もいいし、凝った建築様式に注目するのもいいだろう。部屋の意匠を見比べたり、紀州徳川家の御用絵師が描いた杉戸絵を見る楽しみ方もある。
私としては、天皇の日常の暮らしを想像しながらの見学をお勧めしたい。一つは御厠(みかわや)と呼ばれるトイレ。天皇用としては大便器と小便器、そして手洗い場が見える。大便器は、侍医が排泄(はいせつ)物をチェックできるように引き戸がついていて、天皇のプライバシーについて考えさせられる。御湯殿と呼ばれた浴場も興味深い。天皇は湯舟につからず、体を流すだけだったので浴槽はない。檜(ひのき)の床の中央が低くなる若干の傾斜構造になって、水はけに配慮されている。離れた場所にあるボイラー室から送られる湯を貯(た)めるコンクリート製の貯湯漕もある。
大正天皇の時代まで、天皇ひとりで大便をしたり、風呂に入ってはならず、必ず介助の下級女官が付いた。天皇は基本的に自らの下半身に触れてはならないという不浄の思想のためである。ちなみに、昭和天皇以降は、天皇の生活が近代化され、こうした習慣はなくなった。
天皇の暮らしや執務ぶりが想像できる場所が見学できる施設は多くない。旧田母沢御用邸は間違いなくそのひとつである。
▼日光田母沢御用邸記念公園は9時開館で、入場受付は15時45分(4~10月は16時)まで。基本的に火曜日、年末年始(12月29日~1月1日)が休館。大人・高校生は600円、小・中学生は300円。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など