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大正天皇ご夫妻の「不仲説」を考える 社会学的皇室ウォッチング!/93 成城大教授・森暢平

田中光顕宮内大臣宛嘉仁親王(のちの大正天皇)書簡(1900年)多摩市教育委員会蔵
田中光顕宮内大臣宛嘉仁親王(のちの大正天皇)書簡(1900年)多摩市教育委員会蔵

 栃木県立博物館(宇都宮市)で開催中の企画展「近代皇室と栃木―とちぎ御用邸ものがたり」を見てきた。栃木県は皇室と縁が深く、天皇や皇族の訪問も多い。興味深い展示物が多かったが、私がとくに目をとめたのは、新婚時代の嘉仁(よしひと)皇太子(のちの大正天皇)の御宸翰(しんかん)(自筆の書簡)である。これを眺めながら、夫妻の「不仲説」について考えてみた。

 当時の田中光顕宮内大臣に宛てた書簡(1900〈明治33〉年9月10日)を現代語訳してみよう

「寸書を送ります。秋が深まって来ましたが、大臣はますます健康で、自愛していることと思います。自分も節子(さだこ)も両人ともますます健康で、安心してください。明後日(9月12日)に帰京の折ですが、両陛下(明治天皇と皇后)からの御使いは、(上野の)停車場は混雑していると思いますので、(自分たちが住んでいる)青山御所の方へ来てもらった方が、都合がよいと考えますので、大臣の考えとして、そのようにしてほしいと思っています。過日来、内々に相談している件ですが、どのようになっているでしょう。答えを知りたく、帰京の際は面談したいので、9月13日午後2時に青山御所へ参殿してください」

 皇太子が地方から帰る際、ターミナル駅に、天皇皇后からの御使いが出迎えることは慣例であった。しかし、駅は混雑しているから「お迎え」は青山御所の方がいいから、そうしてくれないかという依頼である。

「お迎えのような儀礼は、他の客にも迷惑になるから、挨拶(あいさつ)は御所に来てもらいたい」という内容は、前例や形式に頓着しない嘉仁皇太子の合理性を示している。側近のなかには、嘉仁皇太子の「軽々敷」様子に眉をひそめる者もあったが、それが嘉仁皇太子の特徴であった。

膝近くに招かれたのは誰?

 嘉仁皇太子は、書簡が書かれた4カ月前(5月10日)、九条節子と結婚したばかりであった。7月25日、栃木県日光に向かい、前年完成したばかりの田母沢(たもざわ)御用邸で夏を過ごした。先行研究には、二人の「不仲」を指摘するものがある。日光で同じく夏を過ごしていた華族令嬢鍋島伊都子(いつこ)(のちの梨本宮伊都子、当時18歳)の滞在する鍋島家別荘を嘉仁皇太子が訪ねたことに対し、節子妃が怒って東京に帰ったなどとされている。根拠のひとつは、伊都子の日記(8月23日条)にあった。

「殿下が(今日は直大(なおひろ)〈伊都子の父親〉へ申ておいた、わが輩の犬をあづけるから、いつ子よく世話をしてやってくれ)とて、それより暫(しばら)く御ひざ近く御めし被遊(あそばされ)、犬の世話の事よりいろ〳〵の御はなし遊ばしいたゞき、四時過御かへり被遊たり」(皇太子殿下が、今日は父親の直大に申しておいた私の犬を預けるから、伊都子、よく世話(せわ)をしてくれと言って、しばらくひざの近くにお召遊ばされ、犬の世話の事から始まっていろいろな話をしていただき、午後4時過ぎにお帰り遊ばされた)

 日本政治思想史が専門の原武史氏は、「御ひざ近く御めし被遊」という表現を、嘉仁皇太子が伊都子を「自分の膝の近くまで寄られた」と読んでいる(『皇后考』文庫版、講談社、157㌻)。しかし、これは誤読だと思う。嘉仁皇太子が自分の膝近くに寄せたのは伊都子ではなく、犬ではないだろうか。伊都子は、皇族である梨本宮守正王と婚約している。いくら「軽々しい」嘉仁皇太子であっても、皇族の婚約者を自分の近くに寄せたりするだろうか。

 この出来事に特別な意味が読み込まれたのは、2日後の8月25日に節子妃が単独で帰京するためだ。原氏は、節子妃の父親の「九条道孝が危篤という電報を受け取ったためであったが、実際にはそれほど悪い状態ではなく、九月三日に日光に戻っている」と指摘する。道孝が66歳で亡くなるのは1906年であり、この年ではない。だから、原氏は「それほど悪」くはなかったと推察し、節子の帰京の不自然さを指摘したのである。

 しかし、のちの研究で、道孝は実際に重い病状だったことが明らかになっている。青山御所に残っている東宮侍医を、九条邸に派遣し交替勤務で病状を常時見守るように指示したのは嘉仁皇太子自身であった。8月24日には、青山御所から日光に電報が届き、「妃殿下可成(なるべく)早ク御帰リ御見舞遊ハス様御取計アリタシ」と促されていた。いつ様態が急変するかどうか分からないので、一刻も早く帰京するように東京から知らせがあったのである(川瀬弘至『孤高の国母 貞明皇后』産経新聞出版)。

 鍋島家別荘訪問をもとに、大正天皇夫妻の「不仲」を語るのは深読みである。「自分も節子も健康」という今回展示された書簡の表現も、妻への気遣いが感じられる。節子妃はまだ16歳。西洋流のレディファーストの作法が気に入っていた嘉仁皇太子も20歳であり、新婚生活が楽しい盛りであったはずだ。

同寝できずに落胆

 ただ、大正天皇夫妻の不仲の話は『昭和天皇拝謁記』にも出てくる。昭和天皇は、「叔母様方」、つまり大正天皇の妹宮たち、とくに竹田宮昌子内親王から聞いた話として、「(両親は)どうも御仲がよくは御ありでなかつたやうだ」と話している(1951年6月5日条)。しかし、これとて伝聞である。

 節子妃が流産してしまったとき(1903年)、大腸カタル(大腸炎)を併発した。このとき、東宮大夫の斎藤桃太郎は「普通、流産後6週間は同寝ができませんが、妃殿下は併発症もあり、一層、御疲労のため、70日は御同寝ができません」と嘉仁皇太子に伝えた(「斎藤桃太郎日記」03年8月25日補遺)。しばらく寝室を共にできないことに対する、落胆が伝わってくる。

 夫婦が実際、どのような関係であったのかは、本人同士にしか分からない。嘉仁皇太子の息遣いが聞こえてきそうな自筆書簡を見ながら、そんなことを考えた。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日11月26日・12月3日合併号」表紙
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