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テレビ人生60年 柔らかな「反骨心」 関口宏という生き方/1『サンデーモーニング』とはどんな場なのか 青木理
日曜朝の情報・報道番組『サンデーモーニング』を36年にわたって差配してきた関口宏氏が番組から勇退した。個性的なコメンテーターの闊達なトークによって、政権の圧力と時に対峙もした番組の姿勢はどこから生まれたのか? レギュラー出演者でもある青木理氏が関口氏に長時間インタビューし、その軌跡から、「静かなる抵抗」の流儀を探る―。
「私は今日で消えます」
さる3月31日の日曜の朝、時刻は午前9時52分を回った。番組終了までの残り時間は1分を切り、画面にはエンドロールが流れはじめる。いつもの司会席を離れた関口宏さんはカメラの前に立ち、ふと共演者の方(ほう)に顔を向けてこんな台詞(せりふ)を口にした。
「私は今日で消えます」。そしてカメラを見据え、「長い間、本当にありがとうございました」
直後の53分、番組終了。瞬間、広大なスタジオにぎっしりと詰めかけていた局幹部、スタッフ、番組関係者から大きな拍手が湧き起こり、両手でも抱えきれないほどの花束が次々と関口さんに手渡された。その眼にうっすらと涙が滲(にじ)んでいるように見えたのは、放送開始から36年間も生放送の番組をやり遂げた感慨によるものか、それとも36年も続けた番組から「消え」る寂寥(せきりょう)によるものか、あるいは風邪気味で少し体調を崩していたからにすぎなかったのか。
毎週日曜の朝、TBS系で『サンデーモーニング』の放送が始まったのは1987年の10月4日である。爾来(じらい)、実に36年と6カ月にわたって関口さんは番組制作を差配し、司会役を担いつづけた。週に1回とはいえ、1人の人物がこれほど長期にわたって生放送の情報番組、報道系番組の司会を務めたのは他に例がない、とテレビ関係者は言う。しかも番組は視聴者の圧倒的支持を受け、熾烈(しれつ)な視聴率競争に一喜一憂するこの国のテレビ界にあって、常にトップクラスの視聴率を叩(たた)き出す〝お化け番組〟として君臨しつづけた。
それほどの人気番組の宿命でもあったろう、時に容赦ない批判の的とされ、近年では「一強」政権の下、一方の側からは「偏向番組」と怨嗟(えんさ)の罵声を浴び、一方の側からは「現下テレビ界で数少ない良心的番組」と熱心な称賛を受けた。
一方からは「良心的」、一方からは「偏向」
そんな番組の制作を率い、司会役も務めた関口さんとは本質的に何者か。〝お化け〟と称される人気番組はどう形作られ、なぜ圧倒的支持を受けつづけたのか。また、これも近年は劣化と萎縮の空気が蔓延(まんえん)していると囁(ささや)かれるメディア界にあって、一方からは「良心的」と称賛されつつ一方からは「偏向」と罵(ののし)られた番組は、政治の恫喝(どうかつ)や圧力にどう抗してきたのか。そしてテレビとテレビジャーナリズムはいかにあるべきだと関口さんは捉えてきたのか―そうしたことごとを、関口さんへの直接インタビューを軸とし、少々異例ではあるのだが、数回にわたって解きあかすのが本リポートの目的である。
ただ、本論に入る前にお断りしておかねばならない。ご存じのとおり、関口さん率いた『サンデーモーニング』には近年、私もコメンテーターの一人としてその片隅に直接関わってきた。そういう意味で私は、関口さんや番組を客観的に論じられる第三者ではない。もちろん、ジャーナリストとして紡ぐ本稿では可能な限り客観的立場に徹するつもりだが、いくらそう強調しても、読者の多くは素直に飲み込むことなどできないだろう。
したがって本稿は、関口宏という人物と彼が率いた人気番組の、その片隅に直接関わって双方を内側から目撃した者の報告として読んでほしい。だから、通常のルポや記事なら避けるべきだろうが、普段どおりに「関口さん」と呼んで書き進めることもお許しいただきたい。
さて、本稿を書くにあたり、あらためて関口さんに長時間のインタビューを行ったのは4月9日。番組から「消える」と告げて10日も経(た)っていない時点だったから、私は直截(ちょくせつ)に問うた。関口さんにとって『サンデーモーニング』とはいったい何だったのですか、と。一瞬考えて関口さんはこう応じた。
「ひとことでいえば、わたしのテレビ屋人生の半分だった、ということでしょうか。今年で芸能生活60年、そのうち半分以上は『サンデーモーニング』の司会をしていたことになりますからね」
あらためて記すまでもなく、関口さんは〝松竹三羽烏(がらす)〟の1人にも数えられた俳優・佐野周二の長男として1943年7月に東京で生まれた。だから大学在学中の63年にテレビドラマで俳優デビューする一方、70年代になるとフジテレビ『スター千一夜』の司会を、80年代にはTBS『輝く!日本レコード大賞』の司会などを務め、これらと前後して『クイズ100人に聞きました』(TBS系、79~92年)、『わくわく動物ランド』(同、83~92年)、『知ってるつもり?!』(日本テレビ系、89~2002年)といった数多(あまた)の人気番組の司会も務めてきた。いや、いずれも関口さんが制作にも深くコミットした〝関口プロデュース〟の番組だったと記した方が正確だろう。
つまり多くの同世代人にとっては幼少期からテレビ画面を通じて接してきた〝ザ・芸能人〟であり、相当にジャーナリスティックなニュース・報道系の『サンデーモーニング』は、その60年の芸能生活を振り返れば、明らかに異質の番組に属する。ただ、決して気負ってスタートさせたわけではなく、36年も続くとは想定していなかったと関口さんは言う。
「こんなに長く続くとは、当時のスタッフはもちろん、私だって思っていませんでした。そもそもを振り返れば、『日曜午前の枠が空いているから、何かやりたいことはないか』と、旧知のプロデューサーが声をかけてくれたのがすべての始まりでしたから」
キャスターショーをやってみたかった
いまとなっては意外な感もあるが、80年代のテレビ界で、日曜の朝は「不毛の時間帯」と認識されていた。同じころ片田舎で中高校時代を過ごした私の記憶に照らしても、それは頷(うなず)かされるところが多い。週休2日制すら十分でなかった時代、貴重な休日に大人は朝寝を決めこみ、手持ち無沙汰の子どもがテレビをつけて眺めたのはアニメの再放送といった番組ばかり。
「そう。あのころの日曜朝の番組で著名だったのはTBSの『兼高かおる世界の旅』や日テレ系の『遠くへ行きたい』といった紀行番組ぐらい。つまり、どのテレビ局も日曜の朝は視聴者が寝ている時間帯だと考えていたんです」
そんな時間帯での新番組を持ちかけられた関口さんは、一つのアイデアをプロデューサーに提案した。続けて関口さんの話。
「私は当時、海外ロケに出る番組をやっていて、日本を留守にすることが多かったんです。当時はネットなどもありませんから、帰りの機中では日本の新聞や雑誌を読み、必死に情報の空白を埋める。じゃないと仲間と酒を飲んでも話題についていけなくてね(笑)」
ならば一週間の出来事をまとめる番組を作ったらいい―単純といえば単純だが、それが原点になった。
「毎日忙しく働く視聴者の皆さんだってそれは同じで、日々のニュースをきちんとチェックするのは難しい。だったら日曜の朝、ゆっくりと朝ごはんを食べながら、あるいはコーヒーでも飲みながら1週間のニュースを把握できる、そんな番組なら受け入れてもらえるかもしれないと考え、それは最後まで変わらずに貫いてきたつもりです。だから右とか左とか、そんなことを考えて始めた番組ではないんです」
他方で関口さんは、この番組に別の想いも込めた。「キャスターショーをやってみたい」という想いだった。どういうことか。
「私は20代でテレビの世界に飛びこみ、テレビに心底から惚(ほ)れこみ、この世界を突きつめてみようと考えていました。そのテレビ界を眺めた時、キャスターショーはまさにテレビ的で、いつかやってみたいと思っていた。つまり、キャスターが自分なりの捉え方でわかりやすくニュースを伝える番組です」
想いの背後には、旧来のテレビ報道やニュース番組への不満があった。
「こういっては失礼ですが、当時のテレビも報道部門はエリート然とした人たちが集まっていて、ニュース番組はそういう人たちが書いた原稿をアナウンサーが読むだけ。そんなニュースはつまらないなと。でも、徐々に登場し始めていたキャスターショーはテレビ的で面白かった。その嚆矢(こうし)はやはり『(JNN)ニュースコープ』でしょうね」
米CBSでウォルター・クロンカイトがキャスターを務めたニュース番組を参考にしたとされる『JNNニュースコープ』がTBS系で放送を開始したのは62年。初代キャスターには共同通信の田(でん)英夫を迎え、間もなく毎日新聞の古谷綱正らも加わり、田とTBSはベトナム戦争報道で時の政権と厳しく対峙(たいじ)し、この国最初の本格的な「キャスターショー」型の報道番組として名を馳(は)せた。
テレビジャーナリズムが持つべき矜持
その潮流は徐々に他局へも広がり、70年代になるとNHKが磯村尚徳をキャスターに据えた『ニュースセンター9時』の放送を開始。そして85年には久米宏をキャスターに迎えた『ニュースステーション』がテレビ朝日で始まった。「報道のTBS」を金看板としたTBSも対抗し、87年に森本毅郎をキャスターに迎えた『JNNニュース22プライムタイム』は短期で挫折したものの、89年には『筑紫哲也NEWS23』の放送が開始されている。
もとより「ニュース」を「ショー」にする―言葉を換えれば、「ニュース」を「視聴率の取れる人気番組」にしたテレビのありようには功罪両面があった。ただ、戦後に新メディアとして誕生したテレビがいよいよ隆盛期を迎え、各局が著名キャスターを前面に据えた「ニュースショー」で鎬(しのぎ)を削り、テレビがニュースメディアの王者となる一時代が始まったのである。
つまり、87年にスタートした関口さんの『サンデーモーニング』もまた『ニュースコープ』などを源流とする「キャスターショー」の一形態であり、『久米ステーション』や『筑紫23』といった報道番組と同じ志を抱いて産声をあげた。だが、当の関口さんはこう釘(くぎ)を刺す。
「私はあくまでもテレビ屋であって、ジャーナリストではありません。だから当初はレギュラーコメンテーターに新堀俊明さん(34~2018年、TBS解説委員や『JNNニュースコープ』のキャスターなど歴任)に加わっていただき、あれこれと相談しながら番組の形を模索していくことになりました」
このことについてはまた後述するが、自らは「テレビ屋」であってジャーナリストではない、という台詞を関口さんはしばしば口にする。それがテレビというメディアを知り尽くしているという自負か、ニュースについては素人なのだという謙遜かはともかく、テレビというメディアに「惚れこみ」、その本質を「突きつめ」てきた関口さんは、たしかにジャーナリストではなくとも、根源的には極めてジャーナリスティックであり、テレビとテレビジャーナリズムが持つ可能性と限界、あるいはその堅持すべき矜持(きょうじ)を知悉(ちしつ)していると私は常々感じてきた。
そのことを今回、私はあらためて痛感させられた。関口さんの事務所で2時間ほどのインタビューを終え、近くの寿司屋に場所を移してビールで喉を潤した際のこと。「テレビ屋を自称する関口さんが憧れ、影響を受けたテレビ人を挙げるとすれば誰ですか」。ふとそう尋ねた私に、再び一瞬考えた関口さんは、こう明かしたのである。
「影響を受けた人は多いけど、ひとつ挙げるとするなら、『お前はただの現在にすぎない』かもしれないね」
あおき・おさむ
1966年生まれ。共同通信記者を経て、フリーのジャーナリスト、ノンフィクション作家。丹念な取材と鋭い思索、独自の緻密な文体によって時代の深層に肉薄する。著書に『安倍三代』『情報隠蔽国家』『暗黒のスキャンダル国家』『時代の抵抗者たち』『時代の異端者たち』など多数。近刊に『破壊者たちへ』『カルト権力』『時代の反逆者たち』
4月23日発売の「サンデー毎日5月5・12日号」には、ほかにも「『岸田従米外交』に異議 山崎拓、猿田佐世が緊急発言」「『水車小屋のネネ』津村記久子インタビュー」などの記事も掲載しています。