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皇別摂家というブランド 旧宮家を相対化する存在 社会学的皇室ウォッチング!/113 成城大教授・森暢平
旧宮家にある人が皇籍に復帰する案に対して、皇別摂家の存在をあげる人がいる。たしかに、天皇家との血の繋がりは、旧宮家より皇別摂家のほうが近い。皇別摂家について私たちはどう考えればいいのか。(一部敬称略)
仁孝天皇の女御として、鷹司家から2人を連続して后妃としたことは前回紹介した。閑院宮系として天皇本家とは血統が離れていた仁孝に東山天皇の玄孫にあたる鷹司繋子(つなこ)、祺子(やすこ)を縁組し、「血の薄さ」の補強を図ろうとしたのである。
後添えの正室、祺子は1829(文政12)年に出産するものの、皇女であった。祺子が24歳であった1835(天保6)年、女官(典侍(てんじ))の正親町雅子(おおぎまちなおこ)が産んでいた親王統仁(おさひと)(当時4歳、のちの孝明天皇)が儲君(ちょくん)(皇嗣)となる。祺子の年齢から見て、男子をなす可能性は残っていたが、東宮(皇太子)不在の状態を避けようとした。しかし、祺子の懐妊はその後なかった。
1845(弘化2)年、統仁皇太子(14歳)の妃選びの際、仁孝天皇は鷹司家から正妃をとるように主張した。鷹司政通の娘積子(つみこ)(東山天皇から見ると、来孫〈五世孫〉)が候補だったと思われる。「〇世」というのは、天皇から何親等離れているのかを指す。鷹司家から娘を入内(じゅだい)させ、血の強化を図る構想は、前代から引き継がれていた。
しかし、当時、ひとつの摂家が連続して正室を出さない暗黙のルールがあり、外戚としての勢力が大きくならないようにするためであった。3回連続、鷹司家からでは反発も大きくなる。鷹司家側の辞退もあって構想は頓挫する。選ばれたのは、九条家の夙子(あさこ)(のちの英照皇太后)であった。
東山天皇に連なる「鷹司」というブランド力はそれほど高かったのである。同時代的な感覚では、5世代離れた娘は天皇の近縁だと考えられた。
皇別摂家に50人以上 皇胤の自覚あるか
皇別摂家(こうべつせっけ)とは、五摂家のうち、天皇家、それに近い閑院宮家から養子を得て相続した三家(鷹司、近衛、一条)を指す。広義には皇別摂家からさらに養子をもらい天皇からの男系男子の血脈を保つ家を呼ぶ。
藤原氏の流れをくむ五摂家は、貴種性を保つため、跡継ぎがいない場合、同格の他の摂家から養子をもらう場合が多かった。加えて3回、天皇家(および閑院宮家)から養子をもらい、家を継続したことがあった。
1度目と2度目は17世紀初頭、近衛家と一条家が途切れた際である。後陽成天皇の皇子がそれぞれの家に入り、近衛信尋(のぶひろ)、一条昭良になった。3度目は1743(寛保3)年、鷹司家が途絶えた際、閑院宮家の初代である親王直仁の王子、淳宮(当時4歳)が鷹司家を継いだときである。のちの鷹司輔平だ。
近衛家は近代に入り、篤麿―文麿(戦時期の首相)―文隆と続き、ここで後陽成からの実系が途絶える。ただし、篤麿の次男の秀麿の系統(子爵)は現在も男系男子を継いでいる。一条家、鷹司家も現在の当主は、天皇家からの実系は途切れている。ただ、前者の場合、一条家から養子を得た久我(こが)家(侯爵)、四條家(侯爵)などが皇胤(こういん)を継ぐ。旧南部藩(現在の岩手県)の当主家にある南部利文は、四條家を経て一条家からの血を継いでいる。また、鷹司家でも、そこから養子を得た高千穂家(男爵)、徳大寺家(公爵)、中院(なかのいん)家(伯爵)、住友家(男爵)が皇胤を継ぐ。
評論家の八幡和郎は、こうした家にある「男系子孫」は近衛系9人、一条系10人、鷹司系32人と紹介する(「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」『新潮45』2017年1月号)。男系男子が50人以上になるということだろう。ただし、多くの人たちは一般市民として暮らしており、皇胤としての自覚はないと思われる。
曖昧な皇統の定義 線引きは恣意的
これに対し、室町時代に分かれたのが伏見宮の系統である。伏見宮家の現在の当主、博明(92)は崇光(すこう)天皇二十世となり、皇別摂家と比べると、天皇家から遠い。そのことは明治時代にも自覚されていた。明治の皇室典範制定にかかわった柳原前光(やなぎわらさきみつ)は1888(明治21)年、意見書を伊藤博文に提出し、以下のように述べる(「皇室典範箋評」)。
「伏見宮の血統は皇位を距(へだた)る将に二十世に垂(しだれ)んとす。(略)且(か)つ崇光帝以降伏見宮以降、伏見宮よりも皇胤近き者、今華族たる人、枚挙すべからず」
伏見宮家の系統は、南北朝時代の崇光天皇から数えると二十世になろうとしている。伏見宮家よりも皇胤に近い華族はたくさんいる――。柳原の要点は、伏見宮家系の皇族は、いずれ皇籍を離れるべきだというところにあった。
こうした議論に対して、「君臣の別」が重要で、摂家といえども「臣下」であり、皇親(皇族)であった旧宮家とは異なるという議論がある。たしかにそうした側面はある。
ただ、現在、復帰が議論になっている旧宮家とて、1947(昭和22)年に「臣籍」に降下したことには間違いなく、一度臣籍に降りた者が77年の時を経て、皇室に戻るのも「君臣の別」の観点から見ると、疑問がある。
皇位継承に関する有識者会議の報告書は「皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること」とあるが、「皇統に属する」を厳密に定義していない。敗戦後に皇室にあった皇族だけ「皇統」にあるとする線引きも恣意(しい)的である。
断っておくが、私は、旧宮家よりも、皇別摂家のほうが皇籍復帰に相応(ふさわ)しいと主張したいわけではない。少なくとも179年前の鷹司家には天皇5世のブランドがあり、伏見宮家の流れをくむ旧宮家も77年前までは皇籍にあった。国民がこうした人々の復帰を受け入れがたい感情を抱くという点では、五十歩百歩という側面があるとの疑問を投げかけたいのである。
天皇家から分かれ、現在は民間にあるという点を相対化してみれば、旧宮家だけが特別視される理由が私には分からない。 もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
[写真] 旧伏見宮邸の門。後にホテルニューオータニが建つ=東京都千代田区紀尾井町で 1962年(昭和37年)2月2日 池田信(いけだあきら)さん撮影
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
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