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悲運のリベラル・加藤紘一の挫折と予見性 林尚行

自民党政調会長時代の加藤紘一
自民党政調会長時代の加藤紘一

◇権力闘争に敗れ、不遇のままの死

 自民党が裏金事件から信頼回復できないまま、戦後保守政治は転機を迎えている。だが、新たな方向はいかに見出し得るのか。そのヒントは、かつて保守リベラルの星であった加藤紘一の構想と挫折にある。加藤を取材し続けた練達の記者が、波乱の軌跡を掘り下げる。

 自民党の支持率が下げ止まらない。岸田文雄内閣の支持率も反転の兆しを見せず、党内からは「このままでは政権を失う」(中堅)という声が公然と上がるようになった。15年前、2009年夏の政権交代前夜にも似た雰囲気が漂う永田町を見ていると、一人の政治家を思い出す。

 加藤紘一。現首相の岸田が解散した自民党の名門派閥宏池会を率い、「首相に最も近い」と言われながら、00年秋の「加藤の乱」で権力闘争に敗れ、不遇のままこの世を去った。

◇「土のにおいのする民主主義」を志向

「政治記者として勉強になると思うから、来ませんか」

 麻生太郎政権が支持率低迷にあえいでいた08~09年当時、私は加藤の番記者だった。加藤の乱から10年近くが過ぎ、「黄昏時(たそがれどき)」を迎えつつあった有力政治家の取材は、30代半ばの私にとって貴重な経験になった。

 ある日、加藤の言葉に誘われ、彼の地元・山形県鶴岡市に足を運んだ。郊外の寺で、有権者たちと加藤が膝を交えて意見交換する車座対話を取材した。私の他に同行する記者はいなかった。

 山あいの細い田舎道を1時間ほど車で走った先にその寺はあった。携帯電話の電波も届かない。会場には、20人に満たない男女が集まっていた。高齢者が多かったが、若い世代も交じっていたと記憶している。

 演台もない、マイクもない、文字通り車座の集会。農業政策、中山間地域の振興策に始まり、国政のあり方、保守とは、と話が広がっていき、参加者の意見に加藤が丁寧に答えていたのが印象的だった。

 これが草の根を大切にする保守政治家の日常活動なのか、などと感心していると、帰り道、車に同乗した私に彼はこう言った。

「自民党はね、土のにおいのする民主主義で成り立っている政党なんですよ。それを忘れたら、有権者からそっぽを向かれるよ」

 その頃の麻生政権はちょうど今の岸田政権のように、逆風に直面していた。4年前に首相だった小泉純一郎の郵政解散で地滑り的大勝利を得た党勢は見る影もなかった。

 加藤は党の凋落(ちょうらく)を嘆き、小泉政権のワンイシュー政治や第1次安倍晋三政権の理念型政治がその原因であると考えていた。郵政民営化が是か非か、という問いに劇場型政治を重ねる手法を「関心事の一極集中」と表現。安倍の政治姿勢は「排他的な強さだ」と指摘し、その包摂性の低さに批判的だった。

 処方箋はあるのか。加藤は答えを、地域社会と自民党の結びつきに求めた。08年10月に政治学者姜尚中(カン・サンジュン)との対話をまとめた『創造するリベラル』(新泉社)では、「地域社会の中にしっかりと根付いたリベラリズムというのが、実は今後一番重要なものになるのではないか」と分析している。地域社会の一員だという信頼感のある環境で多様な考えを育み、そのコミュニティの中に政治家がいて、難しい課題を丁寧に説明し、しっかりと議論できるような社会を構成していく。

 それが、加藤にとっての「強い社会」「強いリベラル」だった。地域に根を張った政治の強さ。携帯電話の通じない寺で地域の人々と交わされる政策論であり、「土のにおいのする民主主義」だった。

 加藤の懸念通り、自民党は09年夏の衆院選で政権を失う。麻生は総裁を辞し、加藤が長年目をかけてきた宏池会の谷垣禎一が後継となった。

 ほどなくして党の信頼回復を掲げ、車座対話が全国で催されるようになった。加藤は「谷垣に言ったら、その通りやってくれた」と喜んでいた。

◇日本外交の今後の軸は「帰亜親米」だ

YKKが旗揚げした「グループ新世紀」の事務所開きで
YKKが旗揚げした「グループ新世紀」の事務所開きで

 ここで改めて、加藤の政治経歴を振り返っておきたい。

 東京大法学部卒業後、外務省を経て、衆院議員だった父精三の死去に伴い、1972年の衆院選で旧山形2区から初当選。「保守本流」を自認する名門派閥・宏池会に属し、大平正芳内閣で官房副長官に抜擢(ばってき)された。

 宮沢喜一内閣では官房長官に就任。党政調会長や幹事長など順調にキャリアを重ね、「最も首相に近い」と目された。98年、宮沢から派閥を引き継いだ。

 だが、大きな挫折が待っていた。2000年秋、野党が提出する森喜朗内閣不信任決議案に派閥ごと同調して可決させ、総辞職に追い込むというシナリオを描いた。「YKK」として知られた盟友・山崎拓とともに勝負に出た加藤の乱は、党執行部の切り崩しに遭い、あえなく失敗。派閥は分裂し、加藤は失脚した。その後、YKKの一角だった小泉が長期政権を実現する中、加藤自身が政権中枢に戻ることはなく、12年の衆院選で落選。4年後の9月9日、この世を去った。

 そんな加藤は生前、若手の政治家や記者を集め、ワインや日本酒を片手に政治談義をするのが好きだった。最初は若手たちの議論に耳を傾け、酔いが回ると饒舌(じょうぜつ)に持論を語った。

 当時、足繁く通っていたのが、赤坂の小料理屋というか、小さなバーのような店だった。雰囲気のある女将(おかみ)が美味(おい)しい酒を出してくれた。

 あるとき、加藤はこう語った。

「日本は明治維新後、『脱亜入欧』でやってきた。ひとつの帰結が太平洋戦争だった。戦後の高度成長期があって、バブルがあって、今また激動の時代がきた。私はねえ、日本外交の軸をもう一度考え直したいんですよ。それは『帰亜親米』だと思うんですよね」

 加藤は当時、超党派の議員連盟を立ち上げていた。中国の台頭で急速に変化しつつあったアジアのパワーバランスに対応し、日本の安全保障と外交を考えると謳(うた)った。自民党では盟友の山崎や中谷元らが参加し、民主党からは枝野幸男、辻元清美といったホープたちが名を連ねた。

 議連の名称は「ラーの会」。古代エジプトの太陽神で、鷹の頭をした人の形で描かれることが多い。加藤と親交のあった哲学者・梅原猛が命名した。教養人だった加藤には、多くの知識人たちが心を寄せていた。

 実は、この超党派議連には、加藤の乱の痛手から復権するカギは政界再編にあり、という加藤の思惑も込められていた。「土のにおいのする民主主義」を忘れて自民党が弱体化する中、民主党のリベラル勢力と結んで党を割り、穏健な保守政党を立ち上げる――。そんな思惑が見え隠れした。

 加藤の思惑は、09年夏の民主党政権誕生によって空振りに終わった。ただ、アジア外交、特に中国とどう向き合うかという日本の針路についての示唆は残った。

 そのあたりの加藤の考え方は、著書『新しき日本のかたち』(05年、ダイヤモンド社)に詳しい。曰(いわ)く、「日本が冷戦崩壊まで持っていた目標は、明治期以来、富国強兵と殖産興業という2つだった。西欧の列強に追いつき、追い越せ。そんなキャッチアップの目標はすでに達することができた。そして、達してしまったからこそ、新たな目標が必要になってくる。そこの議論が必要だ」。

 外務省で中国課次席事務官を務めるなどチャイナスクール出身だった加藤は、政治家としても日中友好協会の会長を務めた。政界きっての中国通として知られ、米国政界にも多くの友人を持つ加藤は、「日米中の正三角形」という言葉を好んで使った。日米同盟を基軸としつつ、中国と良好な関係を維持していく。そうしたアジア外交の基本理念を、この「帰亜親米」という言葉に込めた。

 加藤の死後、習近平体制下で中国の覇権主義が一段と進み、米国だけでアジアの安全保障体制を維持できなくなりつつある今、そのまま当てはめることはできない。とはいえ、日本のアジア外交にとって最大の懸案である日中関係の新しい姿を、加藤のように一言で明確に定義する政治家は見当たらない。

◇「悔いがある」と言って、見せた涙

 加藤が一度だけ、親子ほど歳(とし)の離れた私に涙を見せたことがある。

 加藤番記者の系譜は、朝日新聞をはじめ多くのメディアの重鎮や名物記者たちで彩られている。私はその末席の小者だろう。それだけにふとした瞬間、「隙(すき)」を見せたのかもしれない。今考えると、私の父が都立日比谷高校で加藤の二級下であったこともあり、親しみを感じていたのかもしれない。

 加藤が地元に帰ったその日もまた、同行した記者は私だけだった。夜、加藤に誘われて鶴岡市中心部のスナックに向かった。確か、私たちの他に客はいなかった。

 ひとしきり政局談義に花を咲かせた後、話題は加藤の乱へ。

 しばらく黙り、「悔いがある」とこぼした。目には涙が光っていた。スナックのママが「そんなんだから先生は総理大臣になれないのよ」と、冗談交じりに元気づけたが、加藤は真顔のまま酒をあおった。

 加藤の乱は失敗したものの森政権はほどなく退陣し、小泉の長期政権を生んだ。ラーの会も不発に終わり、車座対話で土のにおいのする民主主義の復権を狙った自民党は、総裁が加藤の愛弟子・谷垣から安倍に交代した。その安倍は、戦後最長政権という形で政権奪還の「果実」を享受することとなった。

 政界引退後の14年初め、都内のホテルで会った加藤は、こう漏らした。「せっかく政権を取り戻したのになあ」。その言葉には、自身と谷垣の2代にわたり、宏池会が踏み台になって清和会の長期政権が生まれたという無念さがにじんだ。

 加藤がこの世を去ってから8年が経(た)とうとしている。安倍の長期政権を引き継いだ菅義偉政権は1年で倒れ、宏池会の岸田が首相の座を射止めた。しかし、国民の人気は低く、9月の自民党総裁選を前に「岸田降ろし」に火がつきかねない状況だ。

 6月下旬、私は加藤の盟友・山崎に会いに行った。葬儀で弔辞を読み、「最強最高のリベラルがこの世を去った」と評した。

 今の政治状況を俯瞰(ふかん)しつつ、加藤という政治家を重ね合わせるとどうか。都内の事務所で、山崎は「岸田は少なくとも、清和会をぶっ壊したな」と語った。そのうえで、「夢はかなわなかったが、加藤は総理総裁を目指していた。政策を勉強し、外交を考え、理念もあった。首相の条件を満たすよう、努力していた。弾みで総理になった岸田はそうではない」と振り返った。

 岸田が再選を狙う総裁選まで2カ月余り。政治とカネ問題をめぐる迷走をみると、自民党の国民感情への鈍感さは極まり、世論をすくい取る機能を失ってしまったかのようだ。

 自民党が再生するとすれば、内政では「土のにおいのする民主主義」に立ち返り、外交の旗を立てて「帰亜親米」のような軸を示すことではないか。権力闘争に終始するのではなく、首相の条件を満たす「器」を競う論戦こそ期待している。(敬称略)

朝日新聞前政治部長・林尚行

<サンデー毎日7月14日号(7月2日発売)より>


◇はやし・たかゆき

 1971年生まれ。朝日新聞ゼネラルエディター(GE)補佐。政治部デスク、経済部長代理、政治部長などを経て現職。政治部で青木幹雄、小沢一郎、谷垣禎一らを担当。経済部で経済産業省なども取材。第2次安倍政権で首相官邸キャップ。テレビの報道番組などでコメンテーターも務める

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