国際・政治 インタビュー
小此木政夫慶大名誉教授に聞く「分断の韓国を理解する朝鮮ナショナリズムの源流」(上) 澤田克己
尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が昨年12月に「非常戒厳」を宣言した後、韓国政治は先を見通せない混乱に陥っている。こうした状況の背景には深刻化する政党間の対立とそれに伴う社会の分断があると指摘されており、国際的な世論調査でも韓国社会の党派対立は米国と同じくらい深刻だとされる。では、対立を深める韓国の「保守派」と「進歩派」を分けるものは何なのか、なぜ対立がここまで深刻になっているのか──。長年にわたって日本の韓国地域研究をリードしてきた小此木政夫慶応大名誉教授は、現代の対立状況の背景を19世紀後半の「朝鮮ナショナリズムの分裂と競合」にあるのではないかと指摘する。小此木氏の診断を2回に分けて紹介したい。
── 今回の事態の背景には韓国社会の分極化、すなわち保守派と進歩派の対立の激化があると指摘されます。韓国における「保守派」と「進歩派」とは、いったい何でしょうか。
小此木 歴史をさかのぼって簡単に定義すれば、韓国の「保守派」とは、米国を拠点に独立運動を展開し、1948年に初代大統領となった李承晩(イ・スンマン)の路線につながる反共・親米の国際協調派ということになります。60~80年代にクーデターで政権を奪取し、大統領となって韓国の工業化や経済発展をリードした朴正熙(パク・チョンヒ)や全斗煥(チョン・ドゥファン)らという将軍たちもそこに入れてよいでしょう。彼らは、李承晩の反共・親米路線の延長線上で国家総動員的に産業化を実行したのです。
他方で「進歩派」は、19年の三・一独立運動直後に中国で樹立された大韓民国臨時政府を足場に独立運動を指導した金九(キム・グ)の民族主義路線に連なります。金九の死後、臨時政府の要人たちは李承晩政権に反対する野党勢力となり、不正選挙への抗議から政権崩壊に至った60年の学生革命で民主化勢力の一部を構成しました。だから、韓国の場合、「進歩派」は民族派ないし民衆派、そして民主化勢力と重なります。一つの民族を重視するので、北朝鮮に対して宥和的ともなります。
── なるほど。独立運動にまでさかのぼる歴史的な背景があるということですか。近年の韓国社会で「保守派」と「進歩派」の対立が激化しているように感じるのは、そうした違いが可視化されたという側面があるようにも思えますね。その点については後で詳しくお聞きしたいと思います。ただ87年の民主化以降を考えてみると、金大中(キム・デジュン)政権(98~2003年)の頃まで「保守派」「進歩派」という分類は一般的でなかったように思います。それ以前と以後では、何が、どのように変わってきたのでしょうか。冷戦終結やIMF危機との関係はありませんか。
小此木 その通りです。金大中政権以前は、単純に「与党勢力」「野党勢力」と呼んでいました。私の印象では、韓国政治に左翼イデオロギーが持ち込まれたのは、80年の光州事件(注1)以後のことです。それ以前には「反米」など存在しませんでした。全斗煥政権の抑圧に対抗するために、学生たちがマルクス主義で理論武装したのです。北朝鮮の金日成(キム・イルソン)独裁を正当化する理論の影響を受けた「主体思想派」という勢力が生まれ、80年代後半に学生運動の主流となりました。彼らは2000年頃に「386世代(注2)」と呼ばれるようになり、一部が盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権(03~08年)に入りました。その頃から「進歩」という言葉が使われ始めたのではありませんか。韓国政治に二分法が持ち込まれたのです。それが分断時代の始まりかもしれませんね。
韓国では左派が民族主義
── 日本では「保守派イコール右派」「進歩派イコール左派」と称されることもありますが、その点はどうお考えですか。
小此木 日本の場合、「右派」が民族主義(国粋主義)的で「左派」が国際協調的です。韓国の場合はその逆です。「左翼民族主義」でなければなりません。
── 尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は23年夏以降、進歩派の野党勢力を「反国家勢力」と敵視していました。24年総選挙で野党が圧勝して以降は、国会で多数派の野党が法案を強行採決で可決し、大統領が拒否権を行使するという光景が日常茶飯事になりました。尹大統領が問題にした野党による弾劾訴追の乱発も、憲法裁判所で罷免という結論になった、つまり憲法裁の審理で正当性を認められたものは1件もありません。一方で「非常戒厳」の宣言は、それを上回る暴挙と言えるでしょう。なぜ、ここまで激しいたたき合いになってしまうのでしょうか。
小此木 ご指摘の通り、まだまだ政治的なゲームが可能なのになぜ戒厳令なのか、今回、そこが一番わかりづらかったのではありませんか。イデオロギー過剰という意味では、尹錫悦政権は「右の盧武鉉政権」なのかもしれません。それに加えて、尹大統領がある種の「被害妄想」に陥っていたのではないか。そうとしか考えられません。
── 北朝鮮との向き合い方が、「保守派」と「進歩派」を分けると言われることもあります。ただ実際には、韓国人の一般的な意識は(1)戦争だけはやめてほしい、(2)近い招来の統一という考えは非現実的──という辺りに収斂されており、世論調査でも現状肯定派がどんどん多くなっています。この状況をどう考えるべきでしょうか。
小此木 そうですね。イデオロギー過剰になっているのは政治家や活動家であって、一般国民ではないということでしょうか。その点は少し安心できます。
── 韓国の大統領が「保守派」だと対日関係がよくなり、「進歩派」だと難しいというイメージが語られがちです。ただ歴代政権を遡ってみると、そうした見方が正しいのだろうかという疑問が出てきます。どうお考えですか。
小此木 もちろん、左派の民族主義にも右派の国際協調主義にも時と場合があるし、政権戦略もあります。とくに新政権が発足する時などには、反対の行動を取ったりもします。例えば朴槿恵(パク・クネ)政権(13~17年)は「中国傾斜」し、大統領が北京の天安門広場での軍事パレードを視察しました。しかし結局は、安倍政権との関係を改善させました。
── 与野党の激しい対立を問題視する際、韓国の大統領が「帝王的」であることに原因を求める議論があります。ただ韓国の事情に詳しい行政法の専門家からは「他国に比べて制度として特段に強い権限が与えられているということはない。大統領の政治任用が多いのは米国も同じだし、制度的には国会による牽制も効くように設計されている」とも指摘されます。制度ではなく、運用によって「帝王」が生まれているということになるのであれば、どうしてでしょうか。
小此木 それほど「帝王的」でしょうか。朝鮮王朝の歴代の国王をみても、「帝王的」でありえたのは少ない。大韓民国になってからも、それは同じです。「帝王的」ならば、なぜどの大統領も悲惨な末路をたどるのでしょうか。激しい政争の一局面を見て、そのように表現するのかもしれません。
(「下」につづく)
[注1]80年5月に韓国南西部・全羅道地方の中心都市である光州で、民主化を要求する市民らを軍が武力で鎮圧し、多くの死傷者が出た。犠牲者は数百人にのぼるとされる。79年10月に大統領の朴正熙が側近に殺害された後、軍部内クーデターで実権を握った全斗煥らが引き起こした。米韓同盟の下で米韓連合軍の作戦指揮権が米側にあったため、民主派勢力の間には韓国軍の投入を「米軍が容認した」という疑念が広まった。それまでは、朝鮮戦争を共に戦って助けてくれた恩人だという対米観が圧倒的に強かった。保守派には現在もそうした感覚が強く残っており、集会などで太極旗と星条旗が並べられることがある。
[注2]当時30歳代で、80年代に学生運動を担った60年代生まれという意味の造語。87年の民主化に至る激しい闘争を主導したという意識を強く持つ世代だとされる。97年の通貨危機によって既存世代の多くが退場を強いられたことで、韓国社会における存在感を増した。近年は単に「86世代」とも呼ばれる。
澤田克己(さわだ・かつみ)
毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数。