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韓国社会を理解するキーワード「オグラダ」 日本人は韓国文学から読み取れるか 澤田克己
韓国文学をテーマにした「K-BOOKフェスティバル」が11月23、24日に東京・神保町で開かれた。足を運んでみると、開場前に100人ほどが列を作り、トークイベントには入場制限がかかるほどのにぎわいだった。今年のノーベル文学賞を韓国の女性作家、ハン・ガンが受賞した効果もあるのだろうが、関係者は「それだけではない」と自信あり気に話す。日本語から韓国語への翻訳が圧倒的に多かった一方通行の時代を知る筆者にとっては、違和感を覚えるほどの盛り上がりぶりだった。今回は、韓国文学について考えてみたい。
民主化から37年、意識は変わった
2019年に第1回が開かれた。女性の生きづらさをテーマにした韓国の小説「82年生まれ、キム・ジヨン」の日本語訳が前年末に出版され、日本でも10万部を軽く超えるベストセラーとなった年だ。日韓の作家10人による短編競作などを並べて「韓国・フェミニズム・日本」という特集を組んだ季刊文芸誌「文藝」が、創刊号以来となる86年ぶり2回目の3刷を記録して話題にもなっていた。この年の来場者は約1200人だったという。
コロナ禍でのオンライン開催を含め、6回目となる今年の来場者は約3200人となった。日本35社、韓国11社の出版社がブースを構えたコーナーでは、50冊準備したというトークイベントで紹介された新刊の翻訳書がすぐに売り切れていた。韓国語の本も売り切れの表示が目立ち、韓国から出店した出版社は「日本語で読んだ本の原書をほしいと買っていく人が多い。こんなに売れるとは思っていなかった」と驚いていた。
かつてはソウルの大型書店に日本文学コーナーはあっても、東京の書店で韓国文学を見かけることなどなかった。村上春樹や東野圭吾、塩野七生、吉本ばなな、江国香織らは韓国でも有名だ。韓国の大手書店「教保文庫」の16年のベストセラーリストでは総合3位が「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健)、5位が「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(東野圭吾)だった。
韓国の文芸関係者からは「1987年の民主化まで文学は軍事政権に抵抗し、民主化のために戦うものだった。だから、日本のようなエンタメ文学の書き手はまだ育っていないのだ」と聞かされてきた。だが民主化からは既に37年が経った。さらにポスト冷戦の90年代以降、経済成長とグローバル化によって韓国社会の意識は大きく変わった。
「キム・ジヨン」などを手がけた翻訳者の斎藤真理子さんは、いま活躍する韓国人作家の多くが60年代以降に生まれた世代だと指摘する。若い頃から世界に通用するサブカルを意識してきた人たちということだ。そして近年は、新しい世代の文学が主流になってきた。斎藤さんは「国家、民族、社会を背負う文学ではなくなり、個人と社会のかかわりを描くような韓国文学が2000年代以降、特に2010年頃から多く出てきた」と語る。
韓日翻訳者の小山内園子さんが近著「〈弱さ〉から読み解く韓国現代文学」で紹介した韓国人作家の言葉は、こうした流れを当事者の目線で語っている。この作家は青春時代に日本文学を吸収して感じたことについて、小山内さんに「自国の作家が大きなテーマと格闘して発言している一方で、日本の小説が個人の世界、自分の身の回りの関係を舞台にしていることに、軽い衝撃を受けた」と語ったそうだ。
社会があるべき姿になっていない憤り
ただ、新しい世代の作家たちも伝統の上にある点は変わらない。斎藤さんは「80年代までの重い韓国文学を全て脱ぎさったわけではなく、そこで培われたものを引き継いでいる。自分のことを書いても、必ず社会とのかかわりが如実に出る。そこが、ミニマムな世界をどんどん描き込んでいく日本文学との違いだ」と話す。
そうした志向性の背景にあるのが、韓国特有の感覚である「オグラダ」だろう。日本にはない概念なので説明が難しいのだが、韓国社会の特色をもっともよく表すキーワードだ。不条理への憤りを広範に表すような語で、韓国では日常的に耳にする。自分が正当に扱われていないと考え、そのことに不正義を見出し、それを社会に訴えたいと考える心情とも言える。私的な憤りが根底にあるものの、自分だけではなく公の問題だという意識が入っている。語幹部分を漢字で書くと「抑鬱」となるのだが、日本語的な感覚で漢字を読んでも理解は難しい。
韓国人は軍事政権と戦って民主化を実現した成功体験があるから、社会に対する異議申し立てに今でも積極的なのだと説明されることが多い。そうした面があるのは否定しないが、それよりもオグラダという感覚、別の言い方をするならば「あるべき正しい姿」になっていない現実に対する憤りが、自己主張の強さにつながっていると考える方が筆者にはしっくりくる。今回のテーマから外れるので深入りはしないが、近年の日韓外交の難しさにもつながってくる概念である。
日本の読者も引き付ける言葉
前述した小山内さんの著書は表題に掲げた「弱さ」を「自らの意思とは関係なく、選択肢を奪われている立場」と規定する。小山内さんは、「弱さ」を描いた作品には直視したくない不都合な現実が収められていると指摘しつつ「韓国現代文学は、そこから目を逸らさず、弱くある自由を叫ぶ。その態度は、『正しさ』や『公平さ』という言葉に置き換えられるかもしれません」と記すのだが、それこそがオグラダにつながるものだろう。
実は、斎藤さんもオグラダの翻訳には苦労するらしく、文脈に合わせて「悲しく、つらい、許せない、耐えられない」などと訳し分けるという。斎藤さんは「オグラダはプリズムのような多面体。それをオグラダというひと言で受け止める人たちが韓国人だ」と話す。韓国の若手作家のポップな作品にも「オグラダは残っていて、そこが日本の読者をハッとさせる点」なのだという。
そうか。筆者は30年以上も韓国社会と向き合いつつ、オグラダという概念をどう理解すべきか悩まされてきたのだが、それが日本の読者を引き付けるのか。そんなふうに考えたことはなかったので、とても新鮮な気付きだった。
澤田克己(さわだ・かつみ)
毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数。