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日本の喜劇王・志村けんを作った「挫折の日々」と「笑いへの執念」「いかりやとの関係」=西条昇(江戸川大教授)【サンデー毎日】
コロナ禍はいったん落ち着き、緊急事態宣言は解除された。
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だが、志村けんさんは帰ってこない。
46年にわたってお茶の間に笑いを届けてきた陰で、たゆまぬ努力を続けたが、そのそぶりも見せず、「希代のコメディアン」としての人生を全うした。
交流のあった評論家が、その人生を照射する。
コントに生涯を捧げた「日本の喜劇王」
志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったのは3月29日。
これまで数々の追悼番組や、所属事務所がアップする爆笑コントを観るにつけ、いまだ志村さんが亡くなった実感がわかないままでいる。
「東村山音頭」のヒットに始まり、加藤茶とのヒゲダンス、「♪カラスの勝手でしょ〜」、バカ殿様、ひとみ婆あさん、「アイーン」などなど。代表的なギャグやコントを挙げればキリがない。
コントに生涯を捧ささげた人生だった。
志村けんさんは1950年、現在の東京都東村山市に生まれた。
68年2月、高校卒業を間近に控えた志村さんは、コント55号(*①)か、ザ・ドリフターズ(*②)のどちらに弟子入りするかを迷った末、笑いと音楽両方の要素があるドリフを選んだ。
リーダー、いかりや長介の自宅を訪ね12時間も粘ったのは有名な話だ。
(*①萩本欽一と坂上二郎のお笑いコンビ)
(*②1956年に結成され、当初はバンドとして活動していた。初期メンバーには坂本九や小野ヤスシも。66年には、来日したビートルズの前座も務めた)
かくして志村さんは付き人の一人に迎え入れられる。
その後、ドリフのメンバーで、「ハゲ」をいじられ、「なんだ、バカヤロ」「ディス・イズ・ア・ペン!」と、ふてぶてしく開き直る芸風で人気だった荒井注が74年3月末で脱退すると、同年4月から正式にメンバーとなった。
69年10月に始まった、ドリフ主演の「8時だョ!全員集合」(TBS系)は、たちまち視聴率40%超えの〝お化け番組〞となり、当時の子どもたちを夢中にさせた。
私も小学校低学年の頃からテレビで観るだけでは飽き足らず、公開生放送や劇場でのドリフのショーに足を運んだものだ。
キャラが定着せず、空回りする日々……
私が初めて志村さんの存在を知ったのは、まだドリフの正式メンバーになる前の72 年、付き人仲間と結成した「マックボンボン」のコントであった。東京・浅草の国際劇場だったと思う。
55号をもっと激しくしたようなドタバタコントで、志村さんが立ったまま、高く上げた足の裏で相方の頰をスパーンと蹴り、かかと落としのようにツッコミを入れる切れ味に驚いたのをよく覚えている。
その才気は鮮烈だったが、いざ「全員集合」に出てみると、長髪の志村さんは2年ほどキャラが定着しない印象だった。
体を張って熱演すればするほど空回りしていたのだ。
潮目になったのは76年3月。「少年少女合唱隊」のコーナーで、出身地にちなんだ「東村山音頭」を歌おうとする志村さんをいかりやが止めると、客席の子どもたちから「歌わせろ〜!」との声が飛んだ。
股間から白鳥の首が突き出たバレエのチュチュや左右の乳首の部分だけ丸く繰り抜かれた〝変態チック〞な衣装で「イッチョメ、イッチョメ、ワ〜オ!」と叫ぶ姿には自信が溢れていた。
それからは、「ちょっとだけよ」などで絶大な人気を誇った加藤に代わり、一人だけ取り残された時に後ろからお化けが出てくるギャグを任された。
「志村、うしろ、うしろ〜!」は、その時の志村さんに感情移入した子どもたちが思わず叫んだ言葉だ。
85年9月末に「全員集合」が16年間の歴史に幕を閉じると、86年1月に同じTBS系の土曜夜8時枠で始まった「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」での、スタジオセットとロケによる映画的な視覚的ギャグを多用した探偵ドラマコントで新境地を開拓。
87年11月にフジテレビ系で始まった「志村けんのだいじょうぶだぁ」では、ラッツ&スターの田代まさしを抜擢し、息の合ったところを見せた。
「2時間沈思黙考」し「日付をまたぐこともしばしば」笑いへの執念みなぎる台本会議
その頃の私はといえば、クレージーキャッツのヒット曲のコピーや漫画家のしりあがり寿さん作詞のコミックソングを歌うバンドのボーカルをしていた。
そこで何本かの深夜番組に出演した時のVTRを「加トちゃんケンちゃん〜」のプロデューサー宛てに「今、一番、大好きな番組です」という手紙を添えて送ると、すぐに電話がかかってきた。
「コントを考えることに興味があったら、放送作家として番組の台本会議に出てみませんか?」
早速、いくつかのコントを書き、指定された木曜の午後3時、TBSのリハーサル室に向かうと、憧れの加藤と共に志村さんが現れた。
2人は、いくつかの長机を合わせたところに向かい合って座り、周囲を「全員集合」時代からのベテラン作家4人と担当ディレクター、プロデューサーとが囲んだ。
私はなぜか志村さんの隣に座ることになった。
まずは皆で出前の蕎麦を食べつつ、小一時間ほど雑談。
ディレクターの仕切りで担当作家が事前に書いた台本のコピーが配られるが、そのまま採用されることはない。
2人は台本に目を通し終わると、黙って腕を組んで考え始める。
煙草の煙が漂う中、沈黙が2時間近く続くこともザラだった。
やがて2人はポツリポツリとアイデアを話し出し、日付をまたぐ頃まで粘り、その回のコントを練り上げていた。
こうした台本会議の進め方は、「全員集合」でのいかりやの手法を継承したものだと先輩作家が教えてくれた。
「英米のコント番組」から「マイナー無声映画」まで渉猟する姿勢
何より驚かされたのは、志村さんのストイックともいえる勉強熱心さだった。
行きつけの東京・六本木の輸入レコード店で、日本未発売の英米のコント番組やコメディー映画のビデオを大量に取り寄せ、それを毎晩、2倍速で次々観ていたそうだ。
とりわけ「ベニー・ヒル・ショー」というイギリスのコント番組の話をよくしていた。
その〝助平〞キャラでのドタバタコントと、美女に囲まれて歌い踊る番組構成は、「だいじょうぶだぁ」の構成や「変なおじさん」への影響が感じられたものだ。
また、チャップリンやキートンよりマイナーな無声喜劇映画の小さな上映会などにも足を運んでいたという。
そうして練り上げたコントを、いざ本番で演じる際は、産みの苦しみを全く感じさせない、バカバカしさの極致のような笑いをふりまいてみせた。
私は自分の担当ではない回の収録にも通っていたが、ある時、撮影の合間に志村さんが私の方を振り返って言った。
「毎週○曜日に『だいじょうぶだぁ』の収録やってるから、今度そっちも見に来いよ」
近くにいた先輩の作家が後に「志村さんがあんなこと言うのはすごく珍しいんだよ」と驚いていた。
私は約1年で「加トちゃんケンちゃん〜」を離れ、若手芸人を集めた番組を担当する機会が増えていたが、それから8年ほどして、ある雑誌のインタビューで、聞き手として志村さんに再会した。
私の顔を見るなり「西条くん、アメリカの田舎町の夫婦がニューヨーク旅行中にどんどんツイていない目に遭うジャック・レモン(*③)の映画のタイトル、何ていったっけ?」と聞いてきた。
(*③戦後米映画界最高の喜劇俳優。アカデミー賞の助演、主演男優賞の双方を初めて獲得した)
台本会議の雑談タイムで、志村さんが「この間、観た映画に面白いのがあったんだ」と切り出したのがそのジャック・レモンの映画「おかしな夫婦」だった。
自分も観てみたくなり、数週間後に「あれ、面白いですね」と話しかけたことを志村さんは覚えていたのだ。
「バカ殿」は東八郎、「だっふんだあ」は桂枝雀
その日の志村さんは台本会議中とは違い、終始穏やかな表情で、影響を受けた笑いの先人たちについて、たっぷりと語ってくれた。
小学生時代に「雲の上団五郎一座」のテレビ放送中継で観た三木のり平(*④)と八波むと志(*⑤)による劇中コント「与話情浮名横
(*④みき・のりへい 俳優、コメディアン、演出家。映画「社長シリーズ」「駅前シリーズ」などで人気を博す。森光子主演の舞台「放浪記」の演出も担当)
(*⑤はっぱ・むとし コメディアン、俳優。由利徹らと「脱線トリオ」を結成したが、30代で早世した)
(*⑥ゆり・とおる 喜劇俳優。日本喜劇人協会会長も務めた。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのドラマでも活躍)
確かに志村さんと由利には〝助平〞でバカバカしい笑いに徹した共通点があった。
もともと「バカ殿」というキャラは、戦前に小笠原章二郎(*⑦)が「殿さまやくざ」「日本一の殿様」などの映画で生み出したもので、戦後は浅草からの舞台中継で東八郎(*⑧)が演じたこともある。
(*⑦おがさわら・しょうじろう 俳優として「猿飛佐助 恋愛篇」などに主演。三好英芳名義で映画監督も)
(*⑧あずま・はちろう コメディアン。渥美清、関敬六らと東京・浅草フランス座で活躍。テレビ「お笑いオンステージ」のレギュラー出演で有名に )
後にその時のVTRを観てみると、志村さんと東のバカ殿のセリフ回しがソックリで、だからこそ「バカ殿」の番組では、尊敬する東に家老役を頼んだのだろう。
志村さんの両目を真ん中に寄せる表情はジェリー・ルイス(*⑨)や桂枝雀(*⑩)の影響を受けた部分もあり、「だっふんだあ」や「すびばせんねえ」というフレーズも枝雀が高座で口にしていたものだった。
(*⑨米国のコメディアン、俳優、映画監督。ディーン・マーティンと「底抜けコンビ」を結成。映画「底抜け」シリーズで活躍)
(*⑩かつら・しじゃく(2代目)。上方落語界を代表する噺(はなし)家。古典落語のほか英語落語やSR(ショートーラクゴ)などにも挑み、観客の爆笑を誘った )
この日語っていた「いつか大きな劇場でバカ殿やコントと一緒に、松竹新喜劇の藤山寛美さんのお芝居をやってみたいんだ」という夢は、約10年後に始めた舞台公演「志村魂」で実現させている。
国内外の先人たちの芸を研究し尽くした上で、普遍的な〝笑いのスタンダードナンバー〞を作り上げたといえる。
だからこそ、志村さんのコントは、時代や世代や国境を超えて笑えるのだ。
「やっていくうちに、だんだん自分の味が出てくるもんだしねえ」
そのベースにあるのは、師匠であるいかりやが作ったドリフ流の笑いだった。
「笑いの作り方には、いかりやさんの影響が大きかったのですか?」との質問には、少し笑みを浮かべ「それしか、知らないからねえ」。
キャンディーズや桜田淳子、いしのようこなど、女性アイドルのコントの才能を引き出す秘訣についても「スタジオの隅とかでオナラをした時に明るく笑ってくれる子は、コントに向いているんだよね」と教えてくれた。
志村さんといえば、前出の田代やダチョウ倶楽部の上島竜兵、近年では千鳥の大悟などと連日のように飲み歩いていたのは有名な話だが、それも自分が看板をはる番組で一緒にコントができる人を育てるために、笑いの呼吸を伝えていた面もあったのではないか。
田代以前に飲み歩いていたのは、村西とおる監督の物真似など下ネタも含めた笑いをふりまいていた頃の片岡鶴太郎だったという。
片岡の俳優業が増えたこともあり、コンビでのレギュラー番組は実現しなかったが、ラッツ&スターのライブでヒゲダンスの真似をしていた田代と、ジェリー・ルイスの映画やアメリカの黒人音楽が好きという共通点で話が合い、田代の起用につながったとも語っていた。
その後も、志村さんは当時の私の個人事務所に所属していた「プリンプリン」というコンビや若手の放送作家を番組に使ってくださり、何度かご挨拶する機会があったし、嵐のコンサート会場でお会いすることもあった。
そうして第一線を走り続け、今年70歳を迎えていた志村さんは、それまで引き受けてこなかったドラマの仕事にも取り組んでいたところだった。
NHK連続テレビ小説「エール」で、作曲家の山田耕筰がモデルの人物に扮した志村さんには、ずっしりとした存在感と飄々とした味が感じられ、画面に登場するだけで引き込まれてしまう魅力がある。
主演を務める予定だった山田洋次監督の映画「キネマの神様」は、言わば喜劇の世界における夢の顔合わせであり、喜劇王としての幅を広げようとしていた矢先の急逝が残念でならない。
それでも、かつて「全員集合」や「ドリフ大爆笑」での鏡コントや付き人コントで息の合ったところを見せていた沢田研二が志村さんの演じるはずだった役を引き継いだと聞き、安心した。
最後に一つ望みを挙げるとしたら、志村さんの遺志を継いでコントを究めようとする若い人たちが出てきてくれることだ。
「まずは物真似からでいいんだよね。やっていくうちに、だんだん自分の味が出てくるもんだしね」
生前、志村さんはそう言っていた。
(一部敬称略)
西条昇(さいじょう・のぼる)
1964年、東京都生まれ。小学校低学年の頃から演芸や喜劇、アイドル歌謡などの生の舞台を観て育つ。落語家、放送作家を経て現職。大衆芸能史とアイドル論が専門。主な著書に『ジャニーズお笑い進化論』(大和書房)、『ニッポンの爆笑王100』(白泉社)、『お笑い芸人になる方法』(青弓社)など