教養・歴史

「マツコ・デラックスの雑誌の元編集者」と「最古のゲイバーを継いだ元電通社員」の「新宿二丁目物語」=石戸諭(ノンフィクションライター)【サンデー毎日】

    街の名前そのものが、性格を表す場所がある。

    「新宿二丁目」もそうである。新しい文化を生み出し、多様性を象徴するイメージが強い。

    その街も、コロナ禍ともちろん無縁ではいられない。

    話題のノンフィクションライターが最古参の店舗を舞台に、街の今昔と人模様を描く。

    二丁目「最古参」ゲイバー店主の死

    洋ちゃんが死んだ――。

    2020年が始まってまもない今年1月のことである。82歳という年齢を考えれば、その死は決して珍しいものではない。

    総務省の統計によれば、2019年時点で80歳以上の人口は1125万人に達し、総人口の8・9%を占めているのだから。

    洋ちゃんの死が新宿二丁目に少なくない衝撃を与えたのは、新千鳥街の一角で1970年代初頭から営業する小さなゲイバー「洋チャンち」の店主であること、そして2020年年頭の時点で二丁目「最古参」と呼ばれていたからに他ならない。

    新宿二丁目のルーツは事実上、売春が公認されていた旧赤線地帯である。

    1958年の売春防止法全面施行で一気に、廃れかけた街になった。そこに活路を見出だしたのが、ゲイバーの店主たちで、1960年代後半にかけて店は増えていく(伏見憲明『新宿二丁目』新潮新書などを参照)。

    現在、東西に約300メートル、南北に約350メートルという小さなエリアに300とも400とも言われるLGBT関連の店が密集している。そんな街は世界中を見渡しても、そうそう無い。

    二丁目に行くことが憧れだった

    「ちょうど初めて新宿二丁目に行ったのは、1971年前後だったかなぁ。昔は二丁目に行くこと自体のハードルが高かったよ」。

    そう語るのは、長谷川博史である。1952年、長崎県島原半島の小さな村に生まれる。

    かつてマツコ・デラックスが働いていたことでも知られるゲイ雑誌『バディ』を立ち上げた名物編集者であり、HIV陽性者として、1992年に感染がわかってからすぐに実名と顔を公表し啓発活動に取り組んできた人物だ。

    長谷川にとって、二丁目が憧れの街になったのは高校生の時だった。

    兄が読んでいた雑誌『平凡パンチ』で特集が組まれており、二丁目の存在を知る。そこに登場していた「クロノス」のクロちゃんの姿に心を鷲摑みにされ、自身の性的指向も同時に知ることになった。

    長谷川は、進路希望を熊本大学の理系から、東京の私立文系に変えた。数学の成績が伸び悩んでいたという事情もあったが、それ以上に「二丁目」への憧れが進路変更のモチベーションになったという。

    一浪の末に慶應大学に進学したが、二丁目にはなかなか行けなかった。

    「貧乏学生だったから、バーって高いってイメージがあった。だから最初は渋谷のハッテン場だった名画座で度胸をつけて、ちょっとずつステップを踏みながらたどり着いた」

    一歩、二丁目に入れば身分も本名も明かさずに飲み、相手を探すことができる夢のような空間だった。

    長谷川は〝先輩〞たちから夢の空間を保つ作法を教わっている。

    「いい、名前を聞かれたらヒロシです、でいいの。昼の仕事も本名も簡単に教えちゃダメだからね」。

    だからこそ顔は知っていても、本名を知る相手は少なかった。 

    憧れていたクロちゃんは言った。

    「この街にヒロシもいっぱいいるけど、あんたは顔がよくないからブスのヒロシね」。

    通り名が決まれば、それ以上の深入りをしないのが、二丁目の流儀だった。 

    LGBTへの抑圧も偏見も差別も当然ながら、今より強かった。

    当時はゲイも「結婚し、家庭を持ってこそ一人前だ」という時代だった。

    長谷川にこう語って聞かせたゲイは、パートナーも女性と結婚し、子供もいて家族ぐるみで付き合っていた。

    ここまで関係を持てば、2人で飲みに行っても怪しまれることはない。カムフラージュしながら、二丁目に通う。彼らのような人は珍しくなかったという。

    フーコー、ロラン・バルト、ウォーホル、メイプルソープ、寺山修司、三島由紀夫……

    一方で、逆説的ではあるが長谷川は当時の二丁目に充満していた熱気も知っている。

    「1960年代から70年代は、ある意味で二丁目の全盛期だったかもしれない」と言う。

    性的な刺激に満ちていただけでなく、新しい文化を生み出す街という一面もあったからだ。 

    同性愛を真正面から扱った『仮面の告白』で一躍有名作家になった三島由紀夫が出入りしていたのも有名な話で、街には様々な逸話や浮名があふれていた。

    フランス現代思想をリードしたミシェル・フーコーや、ロラン・バルトといった思想家が、来日時にお忍びでやってきた。そんな話も広まっていた。

    シーンには「奇妙なシンクロニシティー」(長谷川)があり、独特の魅力と活力に満ちていた。

     一例をあげよう。同時代のニューヨークにはゲイを公表していたポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルの周辺に、クリエイターが集まった。

    同じようにゲイを公表していたフォトグラファー、ロバート・メープルソープが男性のヌード作品を次々と発表していた。

    日本では三島、そして劇団「天井棧敷」を主宰した寺山修司の周辺に性的マイノリティーの表現者が集まっていたと長谷川は言う。

    そこに矢頭保という写真家がいた。三島のヌード作品で知られ、日本においても男性ヌードというジャンルを切り開いていた。

    三島は彼の写真をこう評していた。

    《1969年、「裸祭り」という写真集が出版された。矢頭保が二十数カ所で撮った145枚に、三島由紀夫が長行の序文を寄せている。「生命にあふれた男性そのものに立ち還り、歓喜と精悍さとユーモアと悲壮と、あらゆるプリミテイヴな男の特性を取り戻してゐる」》(2014年5月2日付朝日新聞) 

    芸術かわいせつか。同時代には議論を巻き起こしたメープルソープの作品は、今では一級の芸術作品として評価され、影響を公言する写真家が次々に現れている。

    では日本はどうか。長谷川の思いは深い。

    「日本にもゲイカルチャーが確かにあったよ。僕には矢頭さんの作品は、メープルソープよりゲイ的なエロスが充満していたように感じられた。そこに注目した研究はあまり多くはないけど、文化を支えていたのはゲイ産業だよね。バーや雑誌がまさにそう。狭いお店に、みんなが集まって話をしていたから、文化的にも濃密なものが生まれる」

    「洋ちゃん」の店を継いだ元電通社員

    洋ちゃんも文化を支えてきた一人だった。浅草のゲイバーで使い走りから始まり、わずか2・5坪の店を開けながら、この街の変化を見つめ続けてきた。

    チャーミングな人だった。長谷川と新宿の蕎麦屋でたまたま会ったときのことだ。お互い少し離れて座っていたところ、従業員が長谷川の頼んでいない蕎麦を持ってくる。

    「これは、あちらのお客様からです」

    「洋ちゃん、バーじゃないんだから」と苦笑しながら、蕎麦を手繰る。 長谷川は、そんな洋ちゃんの声を記録したものがあまりにも少ないことを後悔している。

    戦後を最初期から知る人々は次々と鬼籍に入る。誰にも語らず、残さないことを美学としているかのように……。 

    2020年6月、「洋チャンち」の看板は残っていた。黄色に黒の太字でシンプルに店名だけが書かれている、名物の看板である。

    残されたのは、引き継ぎ先がすぐに見つかったからだ。

    「勢いだけでやりますって言ったんですよね。洋ちゃんと直接の面識はないし、何もしなくても二丁目は人気だからすぐに店は決まったでしょう。でも、それだとお店の歴史ごと無くなっちゃうんですよね」 

    引き継ぐと言ったのは、「ゴンちゃん」こと松中権である=前見開き写真=。

    現在、44歳。人生の半分を「二丁目」とともに過ごしてきた。元電通社員で、今のLGBT運動をリードしてきた一人だ。

    長谷川が作った雑誌も読み、彼とはいくつかの活動もともにしてきた。

    この話を聞いた時、長谷川も驚いたと語っていたが、最も驚いたのは口に出した当の本人だろう。 

    ことの経緯は偶然としか形容できないものだった。たまたま、この店の担当不動産会社が、自身が関わっていたプロジェクトで面識があった「フタミ商事」だったこと。たまたま日本の性的マイノリティーのライフヒストリーを集める企画に関わっていて、半世紀続いた店に興味をもったこと――。

    偶然から彼は店の片付けを手伝い始めた。 

    「自分に嘘をつく必要がない」二丁目という街の魅力

    看板が残っているだけで、20年以上この街に通う松中でも知らない常連たちがふらりとやってきて店の思い出や、街の思い出を語った。

    この街には、本人だけが秘めている歴史がある。記録にも残っていない、記憶としての歴史がある。

    1月に引き継ぐことを決めてからというもの、彼にとっては気づきの連続だった。 

    路面に向けて設置してあるすりガラスも、小さな入り口もプライバシーが守られるために必要な仕掛けだ。

    むしろ、ずらりと小さな店が建ち並ぶ新千鳥街そのものが、匿名になり街に紛れ込むことができる空間だった。

    これだけ店があれば、誰かに気がつかれるリスクはぐっと低くなる。どこかの店にさっと入ってしまえば、あとは誰にも見られることなく、店内で語られる話は口外されない。

    それは、自分を隠す必要がないという安心感を生み出す。 

    思えば、松中にとって二丁目は、22歳にして初めて自分に噓をつく必要がないことを教えてくれた街だった。彼はこんなことを書いている。

    《友人ができ、喧嘩もし、恋をして、恋に破れ、悩みを語り、未来を語る。(中略)ただそれだけのことが、当たり前にできない社会だから。新宿二丁目が必要だったし、今も必要なのです》(2020年5月5日付ハフポスト日本版) 

    ゲイであることに気がつきながら、大学生までゲイであることに悩み続けた彼の人生を救ったのは、二丁目の歴史だった。

    あるいは、彼が関わってきた運動のベースになっていたのも、歴史だった、と言えるのかもしれない。 

    コロナ禍で二丁目の灯を絶やすな

    本当なら4月オープンの予定だった新生「洋チャンち」は、新型コロナウイルスの影響でオープン自体を延期することになった。

    クラスター発生が懸念されている「夜の街」でもある二丁目では、閉店を選ぶ店も少しずつ出てきた。

    その中にあって、営業再開を模索する店主たちは、自分たちで感染症専門医とともにガイドラインを作り、守るよう呼びかける活動を始めた。

    繁華街、夜の街、三密が発生しやすい環境はただでさえ批判の対象である。仮に二丁目でクラスターが発生すれば、メディアは好奇の目を向けるだろう。

    それでも再開する理由はある。

    「僕たちのコミュニティーに取っての安心感は、この空間がもたらしてくれるものです。だからこそ自分たちで対策をして、お客さんと一緒に空間を守っていかないといけない」(松中)

    三密の密は、秘密の〝密〞であり、濃密の〝密〞でもある。人が集う密からしか生まれない文化があり、密を守ることで救われてきた人がいる。将来はここをどんな店にしたいの、と松中に聞いた。歴史あるカウンターの中に座る彼は、少しだけ間をおいて言った。

    「洋ちゃんの思い出を通じて、昔と今と歴史をブリッジする。かつてのお客と新しいお客の交流が生まれていく。そんなお店になればいいなって思っています」と。

    ここに、バトンは受け継がれた。

    (文中敬称略)

    いしど・さとる 1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大法学部を卒業し、同年毎日新聞社に入社。2016年1月にインターネットメディア「BuzzFeed Japan」に移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして雑誌、ウェブ媒体に寄稿し、テレビ、ラジオなどでコメンテーターも務める。ニューズウィーク日本版「百田尚樹現象」で、「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」を受賞した。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)が読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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