国際・政治

「合意なき離脱」はもはや不可避……イギリスのブレグジット交渉をこじれさせている「北アイルランド問題」とは何か

「国内市場法案」は離脱協定合意当初から念頭にあった?_(ジョンソン英首相) (Bloomberg)
「国内市場法案」は離脱協定合意当初から念頭にあった?_(ジョンソン英首相) (Bloomberg)

 英国のEU(欧州連合)離脱を巡り、すでに両者で締結している離脱協定について、英国議会で一部の法的拘束力をほごにする内容を含んだ法案の審議が進んでいる。

EU側がこれに対して急速に態度を硬化させ、離脱後の英EU関係を規定する「将来協定」交渉にも大きな影を落とす。

英国が事実上EUに残留する「移行期間」は今年12月末までで、ジョンソン英首相が設定した将来協定の交渉期限の「10月15日」も目前に迫っており、混乱が必至の「合意なき離脱」が現実味を帯びている。

 英下院で9月29日、EU側が英国への不信を増幅させた「国内市場法案」が可決され、上院での審議・採決に回った。

離脱協定が定めている英領北アイルランドと英本土間を移動するモノに関する手続きについて、「無効化もしくは修正」する権限を英国側に与えることを規定した法案だが、これに反発するEU側が9月末までに国内市場法案の問題部分を撤回するよう要求。

英国が応じなかったことから、EUの執行機関である欧州委員会のフォンデアライエン委員長が離脱協定の条項に基づき、1カ月以内に説明を求める通知を送った。

 昨年10月に合意した離脱協定を受け、今年1月末でEUを離脱した英国。

北アイルランド問題は英国の離脱条件を定めた離脱協定の交渉の中でも、最も難航したポイントの一つだった。

北アイルランドとアイルランドの国境では、北アイルランド紛争の和平合意によって自由往来が保障されているが、英国がEUから離脱すれば税関検査など国境管理が復活してしまう。

そのため、離脱協定では北アイルランドとアイルランドの間で国境管理を厳格にしない代わりに、英本土と北アイルランドの間で通関業務が実施されることになった。

 しかし、ジョンソン政権は9月9日、「離脱協定の条項実施に関する詳細を議論している最中に、英本土から北アイルランドに入るモノが封鎖される恐れが浮上した」ことを理由に、英議会に国内市場法案を提出。

北アイルランドが英国の他の地域から孤立しないよう、法案では英国側の権限でモノを移動できる規定を盛り込んだ。

また、離脱協定が法的に曖昧な内容を含んでおり、こうした恐れは離脱協定に合意した際には予見できなかったとも主張したが、これがEU側には“ちゃぶ台返し”と映った。

“玄関口”はどこに

 ジョンソン政権が理由に挙げた「北アイルランドに入るモノが封鎖される恐れ」とは、どういうことなのか。

離脱協定では、法的には北アイルランドは英国の税関領域にとどまり、EU単一市場からは離脱する。英本土から北アイルランドに入ってくるモノに対して自動的に関税が課されることはないが、EUと英国の間に将来協定が締結されない場合、英国から北アイルランドに入った後にアイルランドに入る「危険性がある」と判断されたモノにはEUの関税が適用される可能性がある、とする。

 離脱協定の下、EU・英合同委員会がどのようなモノを「危険性がある」と判断するかの交渉を進めているが、離脱協定では「危険性がある」モノの範囲が合意されなければ、全てのモノが「危険性がある」とみなされ、EU関税が適用されることになっている。

北アイルランドと英本土の間にそうした“壁”ができてしまうのを避けるため、国内市場法案は合意のない離脱となった場合に、英本土から北アイルランドに入るモノが関税対象かどうかを英国側が判断するという規定を含んでいる。

「合意なき離脱」となれば、物流にも大きな影響が及ぶ(英南部ドーバー港) (Bloomberg)
「合意なき離脱」となれば、物流にも大きな影響が及ぶ(英南部ドーバー港) (Bloomberg)

 しかし、EU側が最も問題視したのは、同法案が離脱協定の一部の法的拘束力をほごにする内容を含むという点だ。

英国側の判断で英本土から北アイルランドへ自由にモノを移動できれば、北アイルランドを経由してアイルランドや他のEU加盟国へもモノが移動することも可能になり、関税を課す“玄関口”が失われてしまう。

EU側は国内市場法案が離脱協定を破る国際条約違反であるとして法案撤回を求めるが、ジョンソン首相は「EUは英国の経済・領土の一体性を破壊すると脅しをかけている」と意に介さない。

合意当初から念頭に?

 離脱協定ではアイルランド島と英本土の間のアイリッシュ海に「第2の国境」を設定することが明記されていたが、離脱協定に合意したジョンソン首相は「アイリッシュ海に国境はできない」と何度も強調していた。

協定の内容と整合しない発言だっただけにいぶかる向きもあったが、今となってみればこの法案を提出することが念頭にあったからだろう。

国際条約違反の指摘に対しても、英首相官邸は「英国議会は条約義務に違反する法案を可決できる」という法的意見書を発表している。

 さらに、英政府の新型コロナウイルス対策への批判をかわす狙いも、EUに対する英政府側の強硬姿勢に表れたともみられている。

英国では新型コロナウイルス感染による死亡者が今年9月末時点で累計で4万人を超え、欧州で最悪の状況となっている。

ジョンソン首相自身、今年3月に新型コロナに感染して一時、集中治療室に入っているが、7月には英BBCのインタビューに対して「感染拡大が始まった際に状況を理解できていなかった」と政府の初期対応に問題があったことを認めている。

 しかし、今回の国内市場法案には、国内外から批判も集まる。

北アイルランド和平合意の功労者であるメージャー元首相とブレア元首相は、故意に国際条約上の義務を破る法案を問題視し、「(国際社会からの)信頼をどうやって取り戻せるのか」と疑問を投げかけている。

また、ウェールズやスコットランドの自治政府も非難するほか、北アイルランドのアイルランド統一派、シン・フェイン党は「英政府の方針は南北アイルランドの経済と和平合意に不可逆的な害をもたらす『背信的な裏切り』である」と批判した。

 EUのバルニエ首席交渉官も「ジョンソン首相が自身の署名した条約を尊重することが信頼関係の前提条件」とし、アイルランド共和国のコーブニー外相は、「将来協定交渉における信頼を根本的に損なう」と懸念を表明。

EU側は、離脱協定の「完全な実施」が必要という主張を崩しておらず、フォンデアライエン委員長は離脱協定の履行は「国際法上の義務であり、将来の(英国とEUの)パートナーシップの前提条件」であることを強調した。

漁業権などで平行線

一方、英国とEUの将来協定交渉も、なかなか着地点が見えない。

9月29日~10月2日の英国のフロスト首席交渉官とバルニエEU首席交渉官による交渉は、ジョンソン首相が期限とする「10月15日」に向けた「最終協議」のはずだったが、合意には至らなかった。

ジョンソン首相とフォンデアライエン委員長は10月3日、急きょ電話会談し、会談後の共同声明文では「英海域での漁業権」や「公正な競争環境の確保」「紛争処理などのガバナンス」という論点で大きな溝が残っているとして、今後も交渉を進めるよう両交渉官に指示した。

EU側は漁業権を将来協定の一部と位置付けて交渉のテーブルに載せるよう求めるが、英国は漁業権に関する交渉は将来協定に含まれないと譲らない。

公正な競争環境についても、EU側は国家補助金ルールなどで英国がEUの規制に準ずることが必要条件と主張するが、英国側は主権国家としてそうした条件に屈することはできないと反論。

英政府は、EUは包括的経済貿易協定を結ぶカナダに対しても、同様の要求はしていないと主張している。

ジョンソン首相は移行期間を延長しないと何度も強調しており、今年末で英国はEUから完全に離脱する見込みだ。

また、EU側にとっても、欧州議会や加盟国の議会の批准手続きを考慮すれば、10月末までに将来協定に合意することが必須だ。

双方とも将来協定について「合意が可能」という見方を崩さないが、どちらも「漁業権」や「公正な競争環境」で譲る気配が見られないばかりか、英政府の国内市場法案提出に対してEU側が態度をさらに強固にしている状況だ。

英国とEUの交渉が決裂した場合は「合意なき離脱」となることから、英国とEUの間に通商協定は存在せず、理論上は世界貿易機関(WTO)のルールに沿って行われることになる。

ジョンソン政権は米国との通商協定締結や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)参加が英経済の後押しになると楽観しているが、ペロシ米下院議長はじめ米国の民主党議員らは、英国が北アイルランド和平合意に背いた場合は、米英間の通商協定を承認しないと宣言しており、予断は許さない。

回答期限は「10月末」

EU側は今年末の移行期間の終了に向け、あらゆるシナリオに対する準備を強化しているという。

欧州委員会は、デリバティブ(金融派生商品)や資源の取引を行う英国のクリアリングハウス(清算・決済機関)が移行期間終了後の18カ月間、EU内の顧客にサービス提供を可能とするなど、「合意なき離脱」後に向けた混乱回避策を打ち出しているが、経済・社会の混乱は避けられないだろう。

また、EUと英国の間で将来関係の合意に至ったとしても、国内市場法案を提出した英政府に対して欧州議会が不信感を抱いており、法案が撤回されない限り欧州議会が将来協定を批准しない可能性も高まっている。

国内市場法案に関してフォンデアライエン委員長が英政府に送った通知は10月末が回答期限だが、回答が不十分な説明・内容であった場合は、離脱協定の規定に基づきEU側が欧州司法裁判所(ECJ)に提訴する公算が高い。

ただし、ECJの審理は数年かかるのが慣例であり、移行期間が終了する今年末までに法的な解決策が出る可能性は低い。

加えて、英国の国内情勢も不安定化している。北アイルランド情勢ばかりでなく、来年5月に議会選挙が行われるスコットランドでは英国からの独立運動が再燃する兆しを見せている。

EUと英国の亀裂が決定的となった現在、混乱を回避するための何らかの形の政治合意に向けた動きが予想されるが、短期間での信頼関係の修復は困難だろう。

新型コロナが再び欧州でも感染拡大する中、経済を大きく揺るがしかねない不確実性がまた一つ、加わることになる。

(石野なつみ・住友商事グローバルリサーチシニアアナリスト)

(本誌初出 難航する英EU「将来協定」 現実味を帯びる「合意なし」=石野なつみ 20201020)

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