今なお繰り返される トルストイが『戦争と平和』で描いた「愛国的防衛戦争」の蛮行 望月哲男
ロシアの文豪トルストイの作品は後年、政府により発禁処分となった。だが、提唱した反戦の思想は世界の指導者たちに継承された。作品に込められた「戦争は危険で取り返しのつかぬ行為である」という警告に、いまこそ注意を向けるべきだ。
国家が統合力を高めようとするとき、政治・経済における一体性と並んで共通の歴史や文化の価値が強調される。現代のロシアでよく使われる「ロシア世界(ルスキー・ミール)」という概念も、包括的な運命共同性を示唆し、そこでは歴史・政治的な共通体験とともに言語、宗教、伝統文化なども大きな意味を持つ。例えばロシア語の話者やロシア正教徒が暮らす空間は、国境線の向こうでもロシア世界と見なされがちだ。
文学もそうした「越境的な一体感の醸成」に用いられる。ロシア文学に登場する旧ロシア帝国の諸地域(詩人プーシキンの愛したクリミアや、チェーホフらが描いたウクライナの乾燥した草原地帯など)は、時代を超えて「ロシア世界」のイメージ地図に含まれている。
「国民の鼓舞」に都合の良い作品群
トルストイ(1828~1910)の作品も同様の文脈で言及されることがある。駆け出し作家のトルストイを有名にしたのは、オスマン帝国と英仏相手のクリミア戦争(1853~56年)で勇敢に戦うセバストーポリのロシア兵のルポルタージュだった。さらに有名にしたのは、ロシアに侵入したナポレオン軍を「国民の総力」で撃退した祖国戦争を描いた大作『戦争と平和』である。
ベラルーシもウクライナも、もちろんトルストイの作品地図に含まれる。まさにロシア帝国の一体性と歴史・文明的な使命を表現した作品群である、といった論理で、「国境線の向こうで不当な扱いを受けている親ロシア的な同胞の解放」に向けて国民を鼓舞するにも都合が良さそうだ。それ故にトルストイの作品は、「愛国的防衛戦争の物語」としてくくられがちだ。
ただし、ある作家の作品世界を自国の文化財として尊重するのならば、都合の良いところだけを切り取るのではなく、総体を見る必要がある。『戦争と平和』に描かれる戦争は、きわめて多様な顔を持っている。
戦争は「非合理で愚かしい犯罪行為」
まず、トルストイにとって戦争は、非合理で愚かしい犯罪行為である。
「6月12日、西ヨーロッパの軍がロシア国境を越え、戦争が始まった。つまり人類の理性に、そして人類の全本性に反する出来事が起こったのだ。何百万もの人々が互いに無数の悪行を、欺瞞を、裏切りを、窃盗を、贋金の製造発行を、強奪を、放火を、殺人を働いた。それは世界中の裁判記録が何世紀かけても収集しきれないほどの規模に上るが、当時本人たちには、犯罪を行っているという意識はなかったのである」(3部1編1章)
その愚かしい戦争の主体はだれか。国家の意志をリードしているように見えるナポレオンもアレクサンドル1世も、トルストイによれば戦争の主役ではない。歴史の流れを決めるのは、自然の諸力に支配された「群れ」としての人間集団の暗黙の意志で、皇帝たちはその道具として操られているのだ。皇帝たちの無数の命令は偶然的にしか実現されないし、戦闘を指揮する将軍たちも状況を把握できぬまま作戦をまとめきれず、将兵の判断を追認するばかり。事後の戦況報告も、戦闘の実態を反映していない。後に書かれる戦史の類は、権力者や英雄を主人公にしたフィクションにすぎない。
惨禍を生きる人々を描く
マクロの視野で語られる戦争は不条理劇のようにしか見えないが、しかしトルストイは、その現場で生身の人間が味わう経験の諸相を迫真的に描いている。恐ろしいとどろきと喧騒の中、無我夢中で砲台を守る2等大尉、プロイセンの不潔な野戦病院に詰め込まれた負傷兵たち、ボロジノの決戦で待機中に被弾して致命傷を負う主人公アンドレイ、パルチザン戦であっけなく命を落とす少年ペーチャ……。軍人でない主人公ピエールは、視察に行った戦場ののんびりとした光景が数時間後に地獄の様相に変わるのに肝をつぶす。この人物の視点を通じて我々は、首都に侵入したフランス軍将兵の不届きな行跡、ロシア側のモスクワ総督による無責任な扇動や私刑、捕虜収容所での生活など、戦争の表と裏の人間模様を知る。
全体から浮かび上がるのは、愛国の情や民族意識よりも、戦争の人為を超えた不条理さと悲惨さであり、それに黙々と耐えながら、どんな状況下でも日々の営みと人の気持ちをおろそかにせず、またいつか新しい生活を始める人々の、たくましさと知恵への賛美である。
『アンナ・カレーニナ』にも戦争の影
恋愛小説『アンナ・カレーニナ』にも、戦争が影を落としている。ヒロインの死後、おりしもバルカンでオスマン帝国を相手に始まっていたスラブ人解放闘争(のちの露土戦争、1877~78年)に、失意の主人公ブロンスキーが私設の騎兵中隊を率いて出征するのだ。イスラム教徒に迫害されたスラブ人同胞の解放を叫ぶ世論が高まり、義勇兵や支援物資が続々と送り込まれている――これこそ正教徒ロシア国民の総意の表明だと称賛する評論家の言説に、もう一人の主人公リョーヴィンと義父は、冷たく反発する。民衆はスラヴ人同胞への愛情など持っていないし、国際状況など知りはしない。国家の戦争でもないのに義勇軍に出かけるような輩は、社会のはぐれ者たちだ。好戦的世論は新聞が作っているのではないか……。
ドストエフスキーは酷評
恋愛物語の最後の唐突な展開は保守派の編集者の反発を呼び、雑誌掲載が中止されたため、この部分は別途出版せざるを得なかった。『アンナ・カレーニナ』をヨーロッパに誇るべき名作として高く評価していた作家ドストエフスキー(1821~1881)も、最終盤に描かれたトルストイの戦争論にはカチンときたようで、「無学な民衆こそがバルカンの戦争の意味をしっかり認識している、それが分からないのは、地主貴族のメンタリティから抜けきれない偏屈漢だけだ」と酷評している(『作家の日記』)。
国家や民族の枠で考えることの多かった晩年のドストエフスキーと独立独歩のトルストイの世界観がぶつかった場面として興味深い。
現ロシア政権には届かない
トルストイは後年、三位一体論など教会的なキリスト教の神秘的要素を否定し、福音書の「山上の垂訓」を軸とした独自の合理的・倫理的なキリスト教を唱えた。そして、『イワンの馬鹿』にあるような無欲・勤勉・非暴力・無抵抗・反戦の思想を全世界に向けて発した。ロシア政府は彼の多くの作品を発禁にし、正教会は彼を破門にした。
だがその声の残響は、インド独立の父ガンジーをはじめとする、非暴力的な人間解放運動のリーダーたちの言葉に受け継がれた。もちろんトルストイが生きた19世紀と現代では、国際状況も軍事テクノロジーも情報環境も全く異なっている。おまけに彼の言説は、国家の枠を超えた普遍的な人間の精神と生活態度に向けた理念であり、国家間の利害調整の枠組みや手法を提示しているわけではない。ロシア国家の政体も変転しているので(プーチン政権下で専制体制に戻ったという説もあるが)、今の政権がトルストイの反戦・非暴力論をまともな検討対象とする可能性は少ないだろう。
ただ、仮に「ロシア世界」の理念の提唱者が『戦争と平和』の愛国的な部分を持ち上げるのならば、ついでに戦争の不合理性や犯罪性についての作者の指摘、何よりもそれが皇帝や指揮官の計画や制御を逸脱する、危険で取り返しのつかぬ行為であるという警告にも、注意を向けてほしいものだ。そしてそのあとで、人類の迷妄への反省と将来の可能性への期待をたっぷりと含んだこの名作が、帝国主義競争へと向かう専制体制下のロシアで生まれたことの意味を、深く考えてほしい。
こうした作品こそが、誰一人犠牲にすることなく栄光の「ロシア世界」を実現するための、共有の文化財なのだから。
(望月哲男 ロシア文学者・北海道大学名誉教授・中央学院大学特任教授)