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「韓流」の浸透阻止に心血を注ぐ北朝鮮・金正恩総書記が最も懸念していること 澤田克己

韓国ブームの流入を危惧する金正恩総書記 Bloomberg
韓国ブームの流入を危惧する金正恩総書記 Bloomberg

 北朝鮮で、「“韓流”の影響による言葉の乱れ」が問題視されている。1月中旬に開かれた最高人民会議(国会)で制定された「平壌文化語保護法」は、朝鮮労働党が対策に躍起になっていることを示すものだ。ドラマ「愛の不時着」にも、韓流ドラマにはまって最前線での監視任務をおろそかにする北朝鮮軍兵士が登場する。本当に最前線でそんなことがあるのかは疑問だが、絵空事とまでは言い切れない。北朝鮮における韓流人気は、実に20年近く前から続いている。その歴史と実態について、まとめてみたい。

 韓国ではソウル方言を基にした標準語が放送などで使われるが、北朝鮮では平壌方言を中心にした公用語「文化語」が使われる。もともとある地方ごとの違いに加え、70年を超える分断の歴史の中で南北の言葉遣いには随分と差が出てきた。そのことを改めて感じさせるニュースだとも言える。

 北朝鮮国営の朝鮮中央通信によると、今回の法律は「言語生活の領域で非規範的な言語要素を排撃し、平壌文化語を保護して積極的に生かしていくことに関する朝鮮労働党の構想と意図を徹底的に実現する」ために制定されたという。韓国式表現の取り締まりを徹底していくという意思が感じられる。

 ただし「韓流対策」の法律は今回が初めてではない。2020年12月にも「反動思想・文化排撃法」が制定された。この時には「反社会主義思想文化の流入、流布行為を徹底的に防ぎ、われわれの思想、われわれの精神、われわれの文化をしっかり守護し、思想陣地、革命陣地、階級陣地をさらに強化するにあたって、全ての機関、企業、団体と公民たちが必ず守らねばならない規則」であると説明された。

「青年たちを変質させようとする帝国主義者のたくらみ」

 韓国メディアの報道によれば、金正恩総書記は2011年末に権力を継承して以降、韓流を取り締まる組織を作ったり、韓流ドラマなどの視聴厳罰化を打ち出したりしてきた。処刑説など極端な情報は真偽不明な部分があるものの、それでも取り締まりの強化は事実なのだろう。

 強い警戒心を読み取れるのが、「反動思想・文化排撃法」制定から8カ月後の2021年8月に金正恩氏が送った祝賀文だ。国家事業などへの参加を志願した青年たちに宛てたもので、「悪辣な制裁や圧力、執拗な思想的・文化的浸透の動きによって、青年たちを変質させようとする帝国主義者のたくらみは水泡に帰した」と断じたのである。

 「執拗な思想的・文化的浸透」が、核開発に対する国際社会からの「制裁や圧力」と同列に並べられている。それだけ韓流の浸透を気にしているということだ。「水泡に帰した」というのは希望的観測で、だからこそ今度は「平壌文化語保護法」となったのだろう。

韓国文化への接触がもたらすもの

 では北朝鮮社会への韓流の浸透ぶりは、いかほどなのだろうか。さすがに現地調査はむずかしいが、ソウル大統一平和研究院の脱北者意識調査は参考にできそうだ。毎年の調査で、2011年からは前年に脱北したばかりの人を対象にしている。

観光客でにぎわった冬ソナのロケ地
観光客でにぎわった冬ソナのロケ地

 同研究員のチョン・ドンジュン先任研究員が、計798人の脱北者が回答した2011〜2016年調査について論文にまとめている。その結果、北朝鮮国内で韓国文化に「触れたことがなかった」という人は2011年調査で24・3%。2012年以降はもっと低くて10〜14%だった。どの年の調査でも回答者の4割から5割は「よく触れていた」と答えている。

 どうやって韓国文化に触れたのかという質問にも、7割以上の人が市場や友人・知人を通じて入手したと答えた。何かの機会にたまたま目にしたわけではなく、自分から求めて接触したということだ。

 さまざまな設問への回答を分析したチョン研究員は、「韓国文化への接触が多いほど早期統一を予想し、統一を北朝鮮と自らにメリットをもたらすと考え、韓国の体制への統一を支持する度合いが高い」と結論付けた。金正恩氏が警戒心を強めるのも無理はないのである。

中国とのヤミ貿易で爆発的広がり

 北朝鮮への韓流の流入は、2000年ごろにまでさかのぼる。韓流がまず浸透したのは、中朝国境地帯の中国側に広がる朝鮮族の居住地域だった。中国では1990年代後半に廉価版DVDともいえるVCD(ビデオCD)が急速に普及した。韓流ドラマの人気が出始めた時期でもあり、海賊版のVCDが一気に流れ込んだ。価格は日本円で1本100円ほどだった。

ペ・ヨンジュンは北朝鮮でも人気があった(写真は2004年来日時)
ペ・ヨンジュンは北朝鮮でも人気があった(写真は2004年来日時)

 北朝鮮は、「苦難の行軍」と呼ばれる大変な経済難の時期を迎えていた。多くの餓死者を出すと同時に、食料を求める人々の移動を国が止められなくなり、中国とのヤミ貿易が活発化し、ヤミ市に頼る経済下で格差が拡大した時代でもあった。脱北して中国で食料を調達し、北朝鮮へ戻る人も多かった。

 合法、非合法を問わず活発化した中国との往来によって、2000年ごろから大量のVCDが北朝鮮へ密輸されるようになった。中国の貿易統計を見ると、VCDやDVDのプレーヤーを意味する映像再生機器の北朝鮮向け輸出が2000年代前半に増加している。これも、VCDの大量流入を裏付ける状況証拠である。

 韓国統一省が脱北女性30人を対象に実施した2006年の調査では、北朝鮮で人気の韓国ドラマは「冬のソナタ」や「秋の童話」「天国の階段」などだった。人気の俳優はペ・ヨンジュンやチャン・ドンゴン、キム・ヒソンで、日本や韓国とあまり変わらなかった。

「異色的な録画物」に飛びつく人々

 北朝鮮で2003年に発行された内部資料に「異色的な録画物は社会主義を蝕む害毒である」という文書がある。この文書によると、中国との国境地帯に住むある女性が米国や英国などの「異色的な録画物」の収録されたVCD2000枚を密輸しようとして摘発されたという。この時から既に、北朝鮮当局はVCD流入に頭を痛めていたわけだ。

 記録媒体はその後、摘発を避けようとUSBやマイクロSDカードなどの小さなものへと変わっていった。都市部ではヤミのレンタル屋もあるとされる。そもそも北朝鮮のテレビや映画は体制宣伝が多いので、韓流ドラマの方が面白いのは当然だ。金正恩氏が躍起になって取り締まり強化を命じても、効果はなかなか期待できないのではないだろうか。

澤田克己(さわだ・かつみ)

毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数

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