国際・政治

「新型コロナ恐慌」は世界大戦への「地獄の扉」を開けるのか:後編(出口治明×板谷敏彦)

    第一次世界大戦に参加した我が国最初の軍用機「モーリスファルマン機」(1914年撮影)
    第一次世界大戦に参加した我が国最初の軍用機「モーリスファルマン機」(1914年撮影)

    「国債発行」がもたらす帰結

    「前編」より続く)

    出口 金融面から第一次大戦を見た時、独墺などの中央同盟国と英仏露の協商国(連合国)は米国の参戦までどのように戦費をファイナンスしていたのでしょうか。

    板谷 基本的に国債発行で賄っていました。

    ドイツは、ソビエトと休戦条約を締結した戦争最終年の1918年3月の時点でも、国内で国債の買い手を確保できていました。国民は最後は勝つと信じていたのです。

    一方、英仏は、戦後間もない時期から米国での起債を検討しました。

    米国は交戦国の公債引き受けを禁じていましたが、軍需物資調達向けの信用供与という抜け道を作って対応したのです。

    連合国の米国における資金調達で活躍したのがモルガン商会(現在のJPモルガン)でした。

    1915年1月にイギリス陸海軍、そして春にはフランスと、軍事物資を効率的に購買できるようにするため、自らが代行機関となるべく両者と契約を結んでいます。

    当時、先進国は金本位制を採用していたわけですが、当然、イギリスは開戦とともに紙幣の金兌換(だかん)を停止したと思っていました。

    ところが、調べてみたら違った。金融史家R・S・セイヤーズの『イングランド銀行』(東洋経済新報社)によると、ロイド・ジョージ蔵相や大蔵省に勤めていた経済学者ケインズなどの意見により、金の支払いを維持したのです。

    実は日露戦争でも、日露両国は戦時国債の発行に備えて信用力を保つために金本位制を維持しました。

    同じことを第一次大戦でイギリスもやっていたわけです。

    出口 ドイツも米国で起債したのですか。

    板谷 ドイツはできませんでした。イギリスが海上封鎖し、通信網も完全に傍受できる体制を築いていたので、米国にアクセスすること自体が不可能でした。

    米国にはモルガン商会のライバルで、ドイツ生まれのヤコブ・シフが経営するクーン・ローブ商会があったので、もし米国に行くことができていたらドイツも資金調達できたでしょう。

    もう一つ、第一次大戦の金融面で外せない問題があります。ドイツの戦後賠償です。

    イギリス政府が当初提示した賠償額は240億ポンドで、最終的には1320億金マルク(約66億ポンド)まで引き下げられましたが、それでも莫大(ばくだい)な数字でした。

    当時、大蔵省にいたケインズは賠償要求金額の原案作成を任され、ドイツの支払い能力を考慮すると賠償額は20億ポンド(当時の日本の一般会計歳出の2倍に相当)が妥当と計算していましたが、全く意見を聞き入れられなかったのです。

    ケインズは当時書いた『平和の経済的帰結』の中で「(ドイツの)破綻は目に見えている」と連合国側を激しく非難しています。

    出口 1320億金マルクは、現在の価値に直すと日本の市民1人当たり1000万円と試算する人もいます。

    こんな金額を払えるわけがありません。必ず反動があることは目に見えていました。

    板谷さんも著書の中で指摘していますが、第一次大戦が第二次大戦を引き起こしたのは明らかです。戦争は、始める時よりも、終わらせる時にこそ知恵が求められます。

    よく第一次大戦前と現在の状況は似ているという議論があります。しかし似ている時代なんてどこにもありません。前提が変わっていますから。

    でも、当時の状況を丁寧に見て歴史から学ぶことで、指導者はもっとしっかりしなければならない、外交は情報収集がカギを握るなど、歴史から教訓を得ることはいくらでもできます。

    板谷 同感です。歴史を学ぶということは、多様な過去の出来事からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代の出来事を正しく理解することに尽きると思います。

    グローバル感覚が勝敗を分けた

    出口 日本は第一次大戦で総力戦を垣間見たかもしれませんが、しっかり学んだわけではありませんでした。

    1941年12月に太平洋戦争を始めましたが、日本の軍需生産は42年をピークにその後はガタガタに落ちていきました。

    一方、ドイツの軍需生産のピークは44年です。

    また第二次大戦における日本の戦死者は約230万人で、そのうち餓死者が6割と言われています。

    兵站(へいたん)をおろそかにした点ひとつをとっても、日本の軍部は総力戦の意味をしっかりと学んでいなかったことがわかります。

    外交面も日本はあまり学んでいません。

    第一次大戦の戦後処理を協議したパリ講和会議(1919年)で、日本政府は英語やフランス語を話せる人材を十分に確保できなかったためにアピールすることができず、国際連盟規約に人種差別撤廃規約を盛り込むという希望も果たせなかった。

    その苦い経験を後に生かせていません。

    板谷 中華民国はパリ講和会議に米コロンビア大学の修士号を持つ顧維均(こいきん)を派遣し、対華二十一カ条要求は無効だと流ちょうな英語で演説させました。

    あれは欧米のメディアに鮮烈なイメージを残したと思います。

    この演説が非常に効果的だったために、日本は人種差別撤廃を求めながらも、中国や朝鮮に対しては差別する国だという印象を持たれてしまったわけです。

    出口 明治時代の指導者たちは米国をはじめとした世界の強国に学ばなければならないという意識を強く持っていました。

    欧米に政権幹部の大半を派遣した岩倉使節団はその表れです。

    しかし、日清・日露戦争と第一次大戦がうまく行きすぎたため、舞い上がってしまい学ぶことを捨ててしまった。とても残念なことです。

    これは過去の話ではありません。

    2017年現在、米国に留学する学生は、日本人は2万人以下なのに、中国人は33万人もいます。

    1人当たり国内総生産(GDP)では日本が上回っているにもかかわらず、これだけ数字の開きがあるということは、それだけ中国は米国に学ぼうという意識が強いということです。

    日本人はもっと謙虚になって世界から学ぶ気持ちを持つ必要があると思います。

    出口冶明◇でぐち・はるあき

    1948年三重県生れ。京都大学法学部を卒業後、日本生命保険相互会社入社。2006年に退職。ネットライフ企画(現在のライフネット生命)を設立し、社長に就任。13年から会長。17年に会長を退任。主な著書に『仕事に効く教養としての「世界史」』(祥伝社)など。

    板谷敏彦◇いたや・としひこ

    1955年、兵庫県生まれ。関西学院大学経済学部卒業後、石川島播磨重工業船舶部門を経て日興証券へ。その後内外大手証券会社幹部を経て独立、作家に転じた。主な著書に『日露戦争、資金調達の戦い』『金融の世界史』(ともに新潮社)がある。

    (初出=2017年12月5日「週刊エコノミスト」 構成=花谷美枝/成相裕幸・編集部)

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