教養・歴史ワイドインタビュー問答有用

日系人を支える=斎藤ワルテル俊男 長ネギ生産農家、「ティー・エス学園」理事長/789

理事長を務める「ティー・エス学園」(埼玉県上里町)には、日系ブラジル人の子どもたちが多く通う 撮影=蘆田 剛
理事長を務める「ティー・エス学園」(埼玉県上里町)には、日系ブラジル人の子どもたちが多く通う 撮影=蘆田 剛

 日系2世としてブラジルから出稼ぎに来て30年。斎藤ワルテル俊男さんは幾多の困難を乗り越え、ネギ栽培から学校、人材派遣など幅広い事業を手掛ける。そのあふれるバイタリティーの源とは──。

(聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)

「ネギは未来のある野菜。ブラジルにも輸出したい」

「外国人の子どもの教育は企業にも責任がある。せめて通訳の費用を払えと言いたい」

「1本100円とか150円する葱王を、みんな高いと思うかもしれない。けれど、1本作るのに1年かかります」 撮影=蘆田 剛
「1本100円とか150円する葱王を、みんな高いと思うかもしれない。けれど、1本作るのに1年かかります」 撮影=蘆田 剛

── 長ネギのブランド「葱王(ねぎおう)」は甘みがあっておいしいと評判です。埼玉県上里町周辺は深谷ネギの産地。ネギを作っている農家はたくさんいます。普通の深谷ネギとは違う?

斎藤 品種は同じかもしれないけど、作り方が違う。私たちは肥料に海のサンゴの粉を使ったり、微生物とか納豆菌とか、普通の農家が使わないものを使っていい味を出している。柔らかさなどいろんな付加価値を付けて、普通のネギとは違うんだよとアピールしています。スーパーとかデパートなどの小売店は1500店舗ぐらい。ホテル、レストランや料亭などは500店舗ぐらいに卸し、両方で1日7~8トンを出荷しています。

── ブランド化の戦略が成功したのは味だけではなさそうですね。

斎藤 ネギは普通、2~3本をテープで留めてスーパーの店頭に並べていますが、衛生的で安心じゃないかと、我々は全部、ビニールに袋詰めして出荷しています。それに、むき出しのまま冷蔵庫に入れるより、袋詰めの方が長持ちするんです。デパートやスーパーは、生産の仕方、袋詰め、梱包(こんぽう)、清潔さなど、いろんな要素を見て葱王を選んでくれていますよ。

── どうやって食べるネギが好きですか。

斎藤 私が一番好きなのは焼きネギですね。網に乗せて弱火で焼くんです。強火だとすぐ真っ黒になって苦くなるから。弱火で焼いてネギの横から泡が出てきた時に上げて、ちょっと焦がしてからしょうゆをかけて食べる。場合によっては塩をかけたり、人それぞれによって好みがあります。

「ルーツ」を確かめる

── 「口に休みなし」という言葉があるように、食べ物を作る農業は事業として強いですね。

斎藤 私も強いと思っています。ネギは、みそ汁、納豆、鍋もの、焼き鳥……、何にでも使うので、非常に未来がある野菜です。これが作れている間は安定してお金が入ってくるんじゃないかと思っています。10年ぐらい前から主にブラジル料理のレストラン向けにマンジョーカ(キャッサバ)の栽培も始めました。年間6万トンくらいの出荷と、まだまだ遊びみたいなものだけど。

 斎藤さんが起こした農業生産法人ティー・エスファーム(埼玉県上里町)では今、出稼ぎで来日した日系ブラジル人約20人、日本人約30人の計約50人が働く。葱王を中心に作付面積は約30ヘクタールに及び、近隣の遊休農地も借り上げて生産する。日系ブラジル人2世の斎藤さん自身も、出稼ぎを目的に1990年に来日。しかし、日本で一旗揚げるまでの道のりは紆余(うよ)曲折をたどった。

── 日本へ出稼ぎに来たのはなぜ?

斎藤 自分の遺伝子を確かめるというか、自分はどこから来ているのか。先祖はどこで生まれて、どんなところで育ったのか、というルーツを知りたかったということが一つにありました。もう一つは私、小さいころから相撲や柔道、カラオケをやったりしていて、そういう日本のいろんな文化を学びたいという気持ちもありましたね。来日したのはブラジル・パラナ州のロンドリーナ総合大学を卒業後すぐ、22歳の時です。

── 両親はどんな仕事を?

斎藤 親は最初、農家をやっていたけれど、町へ行って雑貨店のような小さいスーパーを営んでいた。親の勧めで日本語学校にも通いましたが、遊んでばかりいて、まじめに勉強はしなかった。ただ、約束とか義理人情とか先輩・後輩の礼儀作法などは親からかなりきつく教えられ、相撲や柔道を通しても覚えました。漢字は日本で勉強しましたよ。領収書とか請求書とか、漢字が分からないとお金もらえないからね、ハハハ。

人材派遣会社を設立

── 出稼ぎだから、働いてお金を稼ぐという目的もあった?

斎藤 最初は日本でお金をためてブラジルに帰り、商売を始めようと思っていたんです。埼玉県や岐阜県の工場などで働き、2、3年で目標通りお金をためて一度、ブラジルに帰ったんですが、私をかわいがってくれた工場の社長さんが「日本へ戻ってこい」と。他のブラジル人を10人とか15人連れてくるという条件で、私に対してプラスアルファの給料を払うよと言われたんです。お金につられたようなものですね。

── 95年には日系ブラジル人の人材派遣会社「ティー・エス」を設立します。

斎藤 日系ブラジル人の友達がうまく日本語をしゃべれないから、面接で通訳のボランティアとしてあちこちに行ったりして面倒を見ているうちに、いろんな社長さんと知り合いになって。ある社長から、お前をみんな頼ってくるから、それをビジネスにしたらどうかと言われたんです。それが事業を始める一つのきっかけになりました。

── ただ、日本では外国人扱いでビジネスを軌道に乗せるのも大変だったそうですね。

斎藤 今でもそうだけど、私の日本語がなまっているらしくて、営業に行くと「外国人か」と聞かれるんです。信用もないし、なかなか仕事をもらえませんでした。大きな転機になったのは97年、ティー・エスグループとして保育園を作ったことです。うちの女房が地元の保育園に半年間ボランティアに行き、いろいろ勉強してから設立しました。ブラジルでは子どもが宝物。子どもを安心して育てられれば、お父さん、お母さんもやっていける。それでだんだん信用が付いて、周りの会社も認めてくれるようになりました。

── それが現在のブラジル人向けの学校を運営する「ティー・エス学園」(埼玉県上里町)につながっているわけですね。

斎藤 そうです。現在、保育園と小・中・高校全部で約110人の子どもたちがいます。保育園は2015年に認可保育園となり、日本人の子どもも受け入れるようになりました。学園では将来、子どもたちが日本とブラジルのどちらを選択しても生きていけるように、内容はブラジル式、行儀や礼儀は日本式で教えています。世界で生きられる子どもを育てたいから、学園ではポルトガル語と日本語、英語を学ばせています。

── 日本に住むブラジル人の中には、日本社会にうまくなじめない人も少なくないようです。

斎藤 私は今、在日ブラジル学校協議会の理事長もやっていますが、教育を受けていない子はどうしても楽な方へ走っていってしまいます。中には犯罪をする子もいる。だから教育はちゃんとしないといけない。しっかりした教育を受ければすごく能力が高い子もいるんです。私は悔しくて18年に「ティー・エス財団」を作り、返済不要の奨学金制度を始めました。

金融危機が転機に

── 出稼ぎの外国人を受け入れる行政や企業の役割も重要ですよね。

斎藤 外国人の子どもの教育は行政だけの責任じゃない。日系人が日本に来て一番もうかっているのは企業じゃないですか。その子どもたちの教育を提供するのは、彼らを雇用する企業の責任でもあります。学校を作れとまでは言いませんが、せめて日本語ができない子どもたちのために通訳の費用を払いなさいと。こういうことを言うと企業に嫌われますが、私は言い続けますよ。

 順調に人材派遣の事業が拡大していた矢先の08年、リーマン・ショックが発生し、斎藤さんも急激な景気後退の嵐に巻き込まれる。製造業が冷え込んで受注が激減し、抱えた借金は4億円近く。納税もままならず、上里町役場に相談に向かう途中、荒れ果てた農地を目にした。役場で聞けば、後継者がいなくて困っているという。ブラジルでは親がいつも「日本は狭くて土地がない」と言っていたことが頭をよぎる。「なんで土地を粗末にするのか」──。斎藤さんが農業参入を決めたのはこの時だ。

── 農業はまったく素人からの挑戦です。

ビニールハウスで作られているマンジョーカ 撮影=蘆田 剛
ビニールハウスで作られているマンジョーカ 撮影=蘆田 剛

斎藤 もともとマンジョーカを作ろうと思って借りていた土地があり、トラクターも持っていた。ただ、日本では農業を始めるのにいろんな規制があったりして、本当に難しかったですね。最初はレタスとかキャベツ、ジロ(ナスに似た形の苦みのあるブラジル野菜)などをやってみましたが、価格が乱高下してなかなか収入が安定しない。そこで、価格が安定していた有名な地元産の深谷ネギをやることにしたんです。

── おいしいネギを作るための工夫は?

斎藤 自分で勉強するのはもちろん、地元の農家さんなどへ行って肥料に何を使っているのか聞いたり、肥料を作っているところと相談したり……。農協とは付き合っていません。農業を始める時、農協へ相談に行ったんですが、全然相手にしてくれませんでした。まあ、誰かに頼ってしまうと、一生懸命作ったものでも、いろんな取引の条件や値段を付けられちゃう。農協は今ではむしろ競争相手ですね。

後継者を育てる

── 11年の東日本大震災では、食料品などの物資をバスに詰め込んで、被災地の支援に駆け付けました。

斎藤 地震が起きた翌朝、テレビを見たら、被災地の子どもが食べ物がなくて困っていた。すぐ宮城県庁に電話すると、米を持ってきてもらえるとありがたいという返事。ちょうど学校にスノータイヤを付けたバスがあり、バスの椅子を全部外して米3トンを積み込みました。米3トンでは避難所に避難している人たちの1食分にしかなりませんが、会社を作って子どもも生まれ、幸せな人生が送れている日本に恩返ししたいという気持ちです。

── 17年に、ティー・エスの社長を、右腕の部下で斎藤さんと同じブラジルで生まれた日系人の島根茂生さん(日本国籍取得)に譲り、自らは会長となりました。

斎藤 事業をずっと続けてきて、50歳で引退しようと思っていました。50歳なら引退後、いろんな人生を楽しめるんです。何より、一番の大きな目標は新世代の後継者を育てること。現社長は38歳と若いですが、やってみてダメなら私がまた戻れる。これが70歳や80歳になってからでは無理ですよ。日本の中小企業は後継者不足に困っていますが、将来のことを考えて次の世代も育てていかなければダメですよね。

── これからやってみたいことは?

斎藤 引退後の5年間は何もするつもりはありません。会社は一応、経営が安定しているし、私は酒も飲まない、ギャンブルもしない。たまにゴルフをする程度。充電している期間です。でも、私はじっとしていられない性格なんですよね。将来はやっぱりネギの事業を拡大したい。葱王をブラジルをはじめ海外へ輸出していきたいと思っています。(問答有用)


 ●プロフィール●

さいとう・わるてる・としお

 1967年、ブラジルのパラナ州テラボア出身の日系2世。パラナ州立ロンドリーナ総合大学教育学部を卒業。90年に初来日。95年に人材派遣会社「ティー・エス」 を埼玉県上里町で起業。現在は学校法人「ティー・エス学園」、農業部門の「ティー・エスファーム」など六つの事業を手掛ける。2004年に日本国籍取得。日本名は斎藤俊男。「日本とブラジルとの相互理解の促進」の功績で18年度外務大臣表彰。

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