教養・歴史 第一次大戦史から学ぶ
世界を揺るがしたスペイン風邪の発生源は米国だった=板谷敏彦
第一次世界大戦における戦死者の合計は、約1000万人と推計されている。また民間人の犠牲者は諸説あるが約650万人とされ、この戦争では軍隊・民間人合わせて約1650万人が戦没者となった(推計者による誤差は大きい)。
ところが戦争の最終局面の1918年から20年にかけて、世界中でこれをはるかに上回る3000万~5000万人以上に及ぶ死者を出した「スペイン風邪」が流行した。
独軍のルーデンドルフ将軍は1918年の春攻勢が失敗した理由として「スペイン風邪」による士気の低下を挙げている。その春攻勢を受けて反撃に出た英仏米軍の攻勢も遅々としたもので、ここでも「スペイン風邪」の影響が伝えられている。
しかし、重篤で世界的な病気であるにもかかわらず、実態はあまり広く知られていない。
「運び屋」になった米兵
「スペイン風邪」は、スペインが世界的に流行したインフルエンザの発生地だから名付けられたわけではない。第一次世界大戦の交戦国では、報道管制によって病気や死亡等の情報が制限されていた。一方で、当時中立国であったスペインだけが病気に関する死亡者や患者数などの情報を公開していた。それが各国で新聞記事となり、世界各地で流行しているインフルエンザをスペイン発だと誤解したのである。
当時の欧州の「悪いものは何でもスペインから」という風潮も手伝ったのだろう。世界中が「スペイン風邪」と呼ぶようになった。だが当のスペインでは、病原菌は戦乱の地であり、死体が散乱するフランスからピレネー山脈を越えてやってきたに違いないと考えられていた。
最初のスペイン風邪のウイルスの発生は1918年3月の米カンザス州だと考えられている。米国では1917年4月の参戦以来、徴兵制が敷かれ、全米の田舎から若者たちが訓練所に集められた。全米に数多く作られた訓練所の宿舎は急ごしらえの詰め込みで、ウイルスが伝染する環境として適していた。
こうしてウイルスを持った若者たちが訓練を終了した順にヨーロッパの戦線へと派遣されていったと考えられている。3月の時点ですでに25万人の米兵が欧州に渡り、本国では138万人が渡航のために待機していたが、ウィルソン大統領の理想である「自由と平和」を希求するはずの戦士たちが皮肉にも病気の運び屋となっていたのである。
最初は米派遣兵200万人のうち79万人が上陸したフランスの受け入れ口、ブレストの港町からウイルスは拡散していった。1918年4月にはフランス北部にいた英軍に、そして独軍の最終防衛ラインである「ヒンデンブルク線」の塹壕(ざんごう)によって、本来なら物理的に隔てられていたはずの独軍もなぜか感染した。さらに1918年5月になると英軍の南部に布陣していた仏軍にまで到達した。
独軍では当初、英軍と対峙(たいじ)したベルギーのフランダース地方で発症したために「フランダース熱」とも呼ばれていたが、すぐに西部戦線全域の独軍兵士が感染した。そしてその間も米国兵は途切れることなくウイルスとともに続々と西部戦線に到着していった。
英国では1918年6月に軍港の街であるポーツマスから、ロシアにも同月に白海のムルマンスクに派遣された米軍によってウイルスが持ち込まれた。アフリカでも石炭補給の港町であるフリータウン(シエラレオネ)から、アジアではインドのムンバイ、コルカタ、そして中国内陸部奥深く重慶まで達していた。
米兵だけが運び屋なわけではなかった。日本でも1918年6月に陸軍の各連隊宿舎で広がりを見せ、『大阪毎日新聞』がスペイン風邪の記事を掲載した。また1918年の大相撲夏場所では風邪による休場が目立ち「相撲風邪」とも言われた。
世界に広がったスペイン風邪の流行は3波にわかれていた。最初の第1波での死亡者は少なく、3日程度の発熱で回復するところから「3日熱」という呼び名もあった。それでも軍隊の状況は深刻で、1918年7月の『東京朝日新聞』では、「独軍攻勢遅延」の記事でインフルエンザが関連づけられていた。
インフルエンザ第2波となるウイルスの「変異」は1918年8月、フリータウン、ブレスト(ベラルーシ)、ボストン(米国)と、不思議にも遠く離れた3カ所で同時に起きた。第2波では、感染者は悪性の肺炎を発症してばたばたと死んでいった。見るからに健康な若者が、38度から40度の発熱を伴い、発症からわずか1~2時間でほとんど動けなくなった。
人々は、あまりにひどすぎて単なる病気だとは考えられず、ボストンでは独潜水艦「Uボート」が秘密裏に病原体をまき散らしたと信じられていた。また、死亡者の45%が15歳から35歳の一番体力のあるはずの若者だった。
米国では1918年10月24日に戦費調達のための第4次自由公債の募集が計画され、9月から全国で募集のためのパレードや演説会に大勢の人が集まった。こうしたパレードが米国民間人にウイルスを拡散させたと考えられている。
かくして小康状態の後、1919年2月には第3波が伝播(でんぱ)し、米国国内では翌1920年4月までに55万人が死亡した。また米兵の戦場での戦死者は11万人とされているが、その半数は敵弾によってではなくスペイン風邪によって死亡したと考えられている。しかし1920年の半ばになると、この恐怖のウイルスは、まさに音もなく消え去ったのである。
関東大震災上回る死者
1918年当時の光学顕微鏡では、1ミリの1万分の1の大きさの「スペイン風邪」のウイルスは見えなかった。ワクチンなどの対策も不適切で、治療といえば風邪と同じで安静以外になかった。
病原菌がウイルスだとわかったのは電子顕微鏡が発明された1930年代になってからで、古い人体の組織片からウイルスが分離されるようになったのは1990年代であり、遺伝子が解明されたのはごく最近のことである。
今では「スペイン風邪」はウイルス性のインフルエンザ・パンデミック(大流行)だったとわかっている。また伝染性が強く、突然「変異」することによって強力になることも解明されている。
経済史、歴史人口学の速水融氏の著した『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)では、日本のスペイン風邪による病死者を45万人と推計している。1904年の日露戦争の戦没者8万4000人、1923年の関東大震災の死亡者10万5000人と比較して格段にむごい災害であるにもかかわらず、日本の高校世界史の教科書には書かれていない。
戦争や地震などのように、経済的な大規模損失を連想させる大型艦船の沈没や歴史的建造物の破壊などの映像を残さなかったのが原因かもしれない。米国ではこの間、20人が死亡した路面電車の事故は新聞の一面を飾ったが、インフルエンザで連日500人以上が死亡してもあまり一面記事にはならなかったという。
板谷敏彦◇ いたや・としひこ
1955年兵庫県西宮市生まれ。関西学院大学卒。IHI、日興証券、外資系証券を経て独立。著書に『日露戦争、資金調達の戦い』など。
(初出=2016年11月1日号 連載:日本人のための第一次世界大戦史)