「反出生主義」はなぜ哲学的に「ありえない」のか=小川仁志(哲学者)
Q 戦争や貧困に満ちた現在に生まれてくる者たちは、幸せを感じられるのか
A 生まれてこないほうが良いと考えるより、生きることの価値を問い続ける
私は最近リストラに遭ったせいか、何事も悲観的に見てしまいがちです。世の中は戦争や貧困などがあふれています。将来生まれてくる孫のことを考えると、こんな世の中に生まれてきて果たして幸せなのだろうかと心配になってしまいます。(元製造業勤務、現在就活中・55歳男性)
世界を見渡しても、嫌なことがたくさんありますよね。戦争をしている国もあれば、依然テロもなくなりません。貧困どころか、飢餓が原因で死ぬ人も……。そう考えると、果たして本当に人間はこの世に生まれてくるのが、幸せなのかどうか問いたくなるのは分かります。
実際に、南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターは、『生まれてこないほうが良かった』という著書の中でそうした主張を展開しています。「反出生主義」と呼ばれる思想です。ベネターは「快楽と苦痛の非対称性」を指摘し、人間が生まれきて必ず苦痛を経験するのなら、生まれてこないほうが良いということになると論証したのです。
さらに、自らの主張を裏付けるかのように、世界では毎日約2万人が餓死し、毎年事故によって350万人が死に、2000年には81万5000人が自殺しているという事実も摘示しています。
だからこそ私たちは、道徳的義務として、避妊や人工妊娠中絶をすべきで、さらには段階的に人類を絶滅させていかねばならないとまで言うのです。極端に聞こえるかもしれませんが、こうした思想には一定の説得力があることから、イギリスでは「反出生主義の党」という政党まで結成されていると言います。
ただ、個人的には反出生主義には賛成しません。それは単に感情的に反対するということではなくて、あくまで理屈の上からです。いくら苦痛が快楽を大きく上回ったとしても、生きるということに価値がないとは言えないでしょう。
(本誌初出「戦争や貧困に満ちた現在に生まれてくる者たちは、幸せを感じられるのか/31」)
反出生主義に対抗
人間は過ちを繰り返しますが、まったく同じ過ちではありません。そこにかすかな望みを託したいと思います。
だから、世の中で起きていることの原因を自分なりにとことん考えてみたり、質問者ならリストラ後の再出発に動きだしたりと、もう少しだけ頑張ってみてはどうでしょうか。どんな些細(ささい)なことでもいい、自分で考え行動し、答えらしきものが見つかれば、将来生まれてくるお孫さんのためにも、その解決法が幸せをもたらすかもしれません。
デイヴィッド・ベネター(1966年~)。南アフリカの哲学者。反出生主義の理論家。著書に『生まれてこないほうが良かった』などがある。
【お勧めの本】
川上未映子著『夏物語』(文藝春秋)
反出生主義を考えるのに最適の小説
読者から小川先生に質問大募集 eメール:eco-mail@mainichi.co.jp
■人物略歴
おがわ・ひとし
1970年京都府生まれ。哲学者・山口大学国際総合科学部教授(公共哲学)。20代後半の4年半のひきこもり生活がきっかけで、哲学を学び克服。この体験から、「疑い、自分の頭で考える」実践的哲学を勧めている。