教養・歴史 サンデー毎日
「東大合格者」高校別ランク盛衰記・1949~68年 公立高「全盛期」 灘、ラ・サールの「胎動」 教育ジャーナリスト・小林哲夫
2023年度(23年4月入学)の東京大の一般選抜合格者が3月10日、発表されました。サンデー毎日では3月14日発売の「サンデー毎日3月26日増大号」で、合格者1人の高校まで詳報します。これに先立ち、本誌2月12日号から3号にわたって掲載された「『東大合格者』高校別ランク盛衰記」を配信します。
>>〈サンデー毎日2月19・26日合併号掲載「東大合格者」高校別ランク盛衰記・1970~94年〉はこちら
>>〈サンデー毎日3月5日号掲載「東大合格者」高校別ランク盛衰記・1995~2022年〉はこちら
(サンデー毎日2月12日号掲載)
大学受験シーズンが本格化してきた。本誌名物の「大学合格高校別ランキング」も間もなく始まる。この企画は1964年春に掲載の東大合格者の高校別ランキングを起源とする。そこで各地の進学校の「盛衰」を追う新シリーズ。まず「前史」ともいえる1949~68年まで。
1949年、新制の東京大学入試が学制改革で六三三制に変わってから初めて行われた。第1回の東大合格者は1804人である(女子9人)。このうち新制高校出身者は345人で、多くは旧制の高校出身者だった。新制高校の1位は東京都立の第一36人、第五28人、第四25人、第十16人となっている(旺文社『螢雪時代』1949年9月号)。これらは翌年に日比谷、戸山、小石川(現小石川中教)、西と校名を変更した。49年の上位29校のうち公立が25校占めている。国立は東京高等師範学校付属(現筑波大付)の1校のみ。私立は開成、麻布、武蔵(いずれも東京)の3校で、最初から「御三家」が登場していた。
なお、「第一」という序数を示す校名の多くは、前身の旧制○○第一中学の校名をそのまま引き継いだことによるもので、札幌第一(北海道)、金沢第一(石川)、岡山第一(岡山)など全国的に見られた。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で、「第一」は優位性を示して平等に反するという理由から、校名の大半は地域名などに変えられる(一部の地域を除く)。前記の高校は札幌南、金沢泉丘、岡山朝日となった。
旧制第一中学(一中)は都道府県内で最も古い公立学校であり、地元の天才、秀才たちが学んだ。新制高校になっても優秀な生徒が集まり、東大に多く生徒を送り出した。一中を引き継いだ新潟(新潟)、鶴丸(鹿児島)、日比谷、高松(香川)、旭丘(愛知)、大分上野丘(大分)について時代を追って見てみよう。今よりもかなりハードな受験勉強を科していた。
「越境」呼び寄せた日比谷〝力〟
50年代、東大合格上位校には地方の公立伝統校がズラリと並んでいる。50年の新潟は21人(11位)が合格した。この年に同校に入学した女子生徒の話が、学校史で紹介されている。どう考えても健康に良くない。
〈入学して驚いたのは「君たちは四時間寝れば十分」という教師の一言だった。日比谷高校に追いつけ追い越せの雰囲気で、たとえば英語の授業中は一言も日本語がなかった。中学では自信があった彼女の一年間はまごつき、午前二時前に寝たことがなかったという〉(『青山百年史 新潟高等学校』92年)
53年は鶴丸から7人(52位)合格している。このときラ・サール(鹿児島)は4人。同校は50年に開校したばかりだった。
鶴丸にはこんなエピソードがある。51年、入学式後、在校生と新入生の対面式のシーンだ。学校史でこう描かれている。
〈生徒会長の南竹治郎は、壇上に上るなり左右をへいげいし、一呼吸おいて、前生徒会長の「鶴丸とは勉強するところなり」ということばをそのままぴしゃりと言い放った。がやがやとしていた新入生は、一瞬あっけにとられ、その顔から稚気がうせ、緊張がさっと走ったという〉(『創立百年』94年)
60年代、都立高校が全盛期を迎える。64年、日比谷は193人の合格者を出した。日比谷の授業について、同校の進学指導主任教諭が著書でこう記している。
〈わたくしどもは、補習授業をしたり、超学年制をとったりすることが、高校としてまちがっているだけでなく、受験のためにも決してプラスにはならない、と信じています。(中略)まず、本校ではテストの回数を極力減らしている。(中略)テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる〉(加川仁『必勝大学受験法』講談社、63年)
ここで触れられた「超学年制」とは、高校2年修了時に3年までの課程を終わらせる「先取り学習」を言う。いまでは私立中高一貫校で普通に行われているが、当時はそれほど多くなかった。灘(兵庫)が取り入れており、日比谷は灘を「まちがって」いると批判したことになる。高校は受験予備校ではない、日比谷はそんな野暮(やぼ)なことはしない、というプライドを持っていたのだろう。
もっとも他校の進路指導教諭は冷ややかに受け止めていた。日比谷は各地域の中学の学年1、2番が集まってくる。そんな秀才たちは自分で勝手に受験勉強を先取りするから、日比谷の先生は楽なんじゃないか、日比谷だからこそ、そんなスタイルの授業でも東大受験に対応できるのであって、どの高校にも通用するわけではない、と。
実際、日比谷は優秀な生徒が各地から集まった。この中には、法の抜け道を突いて小中学生時代から越境入学した秀才たちもいた。
日比谷へ入学するには千代田区立の番町小、麹町中に通うという「エリートコース」があった。60年前後、麹町中から毎年50人前後が日比谷に進んでいる。これが人気の的となり、59年、番町小に37%、麹町中には39%の児童・生徒が学区外から通学していた(当時の新聞報道)。学区外は千葉や神奈川にも及ぶ。教育熱心な親は日比谷への「近道」である番町小、麹町中に子どもを通わせたい。そのためにこれらの通学区域にアパートを借り、親戚や友人宅に居候する。これほどまで日比谷にはブランド力があったのである。
64年には、高松で26人(18位)の東大合格者を出した。学校新聞の記事はかなりはしゃいでいた。
〈驚異的な伸びを示す。県下はもちろん西日本の公立高校として最高のできばえだった。校長先生も「昨年は騒音に悩まされていたので、まったくうれしい予想はずれというほかに何もない」と手放しの喜びようである〉(『高松高校新聞』64年4月30日)
「学校」「地域」と「生徒」の〝落差〟
60年代、地方の公立高校合格者を増やした学校の中では、通学区の変更の恩恵によるところもあった。
愛知では56年から公立高校入試で大学区制が導入された。それまでの県内14学区から、県内の尾張(名古屋市などの西部)と三河(岡崎市などの東部)の2学区となり、県内西部の優秀な生徒による旭丘への一極集中が始まった。学校史にはこう記されている。
〈学区内の全地域の中学校から選ばれた優秀な生徒が旭丘高校に集まる図式が固定化したとき、旭丘高校が悪名高い学校格差の上位に好むと好まざるとにかかわらず位置するにいたったのも当然であった。(中略)小学区制の後半から大学区制の初期(昭和三十年代前半)にいたる間の、主要大学合格者数の急激な変化があげられる」(『鯱光百年史』77年)
変化はたしかに「急激」だった。東大合格者は大学区制以前の55年は8人だった。大学区制導入後、まるで違う学校に変えてしまう変貌ぶりだった。65年49人(13位)、66年66人(9位)、67年71人(8位)という、とんでもない数字をはじき出す。70人超えは旭丘にとって空前絶後だった。
通学区に変更はないが、猛烈な受験指導で合格者を増やしたところがある。
大分上野丘は▽授業が平日8時間(土曜日7時間)▽学力別編成▽早朝補習▽テスト即日採点で翌日成績発表▽クラス編成は1年生からコース別▽実力試験で成績順に編成▽ホームルームをなくして能力別授業を実施▽試験で生徒のクラス「入れかえ」―など生徒の尻を叩(たた)き続けた。
結果は出た。東大合格者が65年11人(53位)、66年15人(38位)、67年23人(26位)と右肩上がりを示す。学校新聞も「県下の俊英集まる」と見出しを掲げ自画自賛し、地元紙にも「意気高々と上野丘高 開校以来の大記録 肩を叩いて『よかった、よかった』」との見出しが躍った。
しかし、この様子を当時の生徒は学校史でネガティブに捉えている。学校史に率直な記述が見られた。
〈生徒の側から見れば「高校は受験のための存在」であり、その印象は「灰色……」であった。(中略)この時期の卒業生は「補習をするので、夏休みは無いも同然だ」「一日八時間に加えて宿題とテストぜめ」「ガリ勉が増え、部活動はべっ視された」「国立中心主義で、私大を受ける者はバカよばわり」などと当時を批判的に振り返る者も多い〉(『上野丘「百年史」』86年)
65年、日比谷、西、戸山、新宿、小石川、小山台、両国の7校で677人合格している。2022年は133人だった。
しかし、現浪別で見ると違った風景が見えてくる。1965年、合格高校の主な上位校について、現役合格率を都立、私立、国立大付属の3者で比べてほしい(現役/全合格者)。
着目され始める〝現役の合格率〟
【都立】日比谷42.5%=77人/181人▽西50%=63人/126人▽戸山39.1%=43人/110人▽新宿40.8%=29人/71人▽小石川48.4%=30人/62人▽小山台50%=23人/46人▽両国51.2%=21人/41人
【国立大付属】東京教育大付属65.1%=56人/86人▽東京教育大付属駒場(現筑波大付駒場、東京)76.8%=53人/69人
【私立】灘80.9%=55人/68人▽開成63.6%=35人/55人▽麻布60.4%=55人/91人▽栄光学園(神奈川)69.6%=32人/46人▽ラ・サール68.4%=26人/38人▽愛光(愛媛)92.9%=13人/14人▽久留米大付設(福岡)62.5%=5人/8人▽甲陽学院(兵庫)81.8%=9人/11人▽東海(愛知)80%=8人/10人
東大合格者の「現役率」は、都立が多くて4割程度である。私立、国立は6割以上が当たり前で、8割を超えているところもある。こうしたデータは中学進学塾を通じて保護者に伝えられ、「中高一貫校のほうが進学指導に熱心」「都立はほったらかしにしている」という話が広がってしまう。ともに中高一貫校人気の兆しが見え始めたのだ。
そして、60年代後半になると国立、私立勢が合格者上位に現れる。67年はラ・サール37人(16位)、栄光学園35人(17位)、愛光20人(30位)、広島学院19人(広島、33位)などだ。68年は灘132人(1位)、日比谷131人(2位)だった。日比谷は初めてトップの座を譲ってしまう。
69年は東大闘争で入試中止となり、日比谷の巻き返しを見ることはできなかった。この間の事情について、日比谷出身である作家の庄司薫は、69年に芥川賞を受賞した『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中で登場人物にこう言わせている。
〈特に日比谷のみなさんはお気の毒だと思うのよ。だって去年灘に抜かれたんでしょお? 1人だけだけど。今年こそ首位ダッカンっていうのはすごかったんでしょお?〉
その後、67年に導入された都立高校学校群制度によって日比谷は三田、九段(現九段中教)の2校と「群」を組み、優秀な生徒は3校に分散する。受験生にすれば、意志と関係なく3校に振り分けられ、志望しても日比谷に入れない仕組みだった。ならば、国立か私立に進もうという機運が高まってしまう。
この結果、70年代以降、日比谷は東大合格実績を大きく落とした。「首位ダッカン」は2020年代になっても果たされていない。
こばやし・てつお
1960年神奈川県生まれ。教育、社会運動を中心に執筆。近著に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『早慶MARCH』(朝日新書)